4人に1人が65歳以上という「超高齢社会」日本で今、注目されているのが在宅医療である。住み慣れた自宅で落ち着いて療養する。家族に見守られながら安らかな気持ちで最期の時を迎える。そんな安心社会の創造に貢献したいと、在宅医療専門クリニックを開業した伊谷野克佳さん(「松下幸之助経営塾」卒塾生)。その志をスタッフの高度な専門能力と融合させ、組織の力として発揮するためには何が必要だったのか。東京・蒲田のクリニックを訪ね、話をうかがった。

理念の明文化と共有で「断らない医療」を実現(前編) からのつづき

経営セミナー松下幸之助経営塾

<実践! 幸之助哲学>
チームの力を高めて真に安心できる訪問診療を――後編

直面した「経営の壁」

伊谷野さんは、訪問診療を選んだ理由をこう説明する。

 

「二〇〇〇(平成十二)年に介護保険制度が始まったのをきっかけに、在宅医療が注目されるようになりました。とはいえ、それをやるクリニックは、私が開業した二〇〇五年当時、極端に少なかった。なぜなら、在宅医療に携わるには、基本的には病院と同じ体制、つまり二十四時間三百六十五日対応する必要があり、簡単には個人創業できないからです。
ただ、流れとしては在宅医療に向かっていくことが国の方針としても示されていました。一般外来クリニックを始めても、結局は何かに専門特化しないと生き残れない時代です。それなら、総合的医療に携わることのできる在宅一本で行こうと思ったのです」

 

二十四時間体制については、「外科でハードな勤務を積み重ねてきたし、緊急対応も頻繁に行なっていたので、自分一人でもなんとかなる」と考えていたそうだ。
開業当初はそれでよかったが、患者数が増えてくると一人での限界を感じるようになる。そこで、医療法人社団双愛会を設立して法人化し、医師や看護師、サポートスタッフを採用して、組織として対応できる体制に移行していった。

 

ところが、伊谷野さんはここで一つの問題に頭を痛めることになる。一人の時は自分の考えだけで突っ走ることができたが、チームとなると各々の考え方やスタンスが異なる場面が出てきたのだ。
伊谷野さんの考えのベースにあったのは「断らない医療」である。在宅医療は定期的な訪問活動が軸になるので地域的な制約はあるが、エリア内であれば、どんな病気、どんな状態であっても断らないという方針である。

 

在宅医療を必要とする人は、自分で医療機関に足を運べない患者である。医師側が患者を選んでいては、在宅医療が担うべき地域医療の役割が果たせなくなる。
だが、大病院での最先端医療が主流という価値観の中で、在宅医療の理念に本音で賛同してくれる医師を見つけるのは容易ではない。それに、その頃はとにかく人手が足りなくて、とりあえず非常勤でも来てもらえるだけでありがたいという思いがあった。

 

そうなると、医師の中には自分の専門以外の患者を診ようとしなかったり、診察する患者の数を自分で制限したり、「命を救うため」を大義名分にコスト度外視の治療を行なったりする者も現れ、様々な問題が表面化するようになった。

 

「断らない医療」という伊谷野さんの方針が全く徹底されない。これでは、目指す医療の役割を果たすことも、組織として利益を出すこともままならない。クリニックにとって医療と経営は車の両輪であり、利益を出し続けられてこそ、真に社会の役に立つ医療活動を継続することができる。しかし、非常勤の医師に対しては「手伝ってもらっている」という意識があって、強く指導することを躊躇してしまう。
ここにきて、伊谷野さんは初めて「経営」という壁に直面することになった。

 

どうすれば方針を徹底できるのか、どうすれば組織を動かせるのか。考えてみれば、これまで医療の道をひた走ってきて、経営について学んだことはない。法人になった以上、組織をまとめていく力をきちんと身につける必要があるのではないか。そう考えて参加したのが、松下幸之助経営塾だった。

松下幸之助経営塾資料

理念を明文化し方針を貫く

経営塾での重要な課題の一つが、経営理念の確立とその掘り下げである。わが社は何のために存在するのか、その存在理由を明確にし、経営者が深く自覚することで、経営の推進力がいっそう増すのである。
伊谷野さんの場合、自分の心の中に強い思いはあったが、それを具体的な言葉に書き表したことはなかった。伊谷野さんにとって経営塾への参加は、まさに経営理念を策定するというタスクそのものから始まった。

 

「私以外の受講企業の多くにはきっちり理念があって、パンフレットまである。一方うちにはお示しできるものがなくて、最初は恥ずかしい思いをしました。でも、皆さんのお話をうかがううちに、事業を推進するためにはいろんな場面で理念を共有することが大切になるのだということがよくわかりました。『このままではいけない』と気づかされたんです」(伊谷野さん)

 

経営塾は、一泊二日のセミナーが隔月で全六回、約十カ月にわたって開催される。それは、日頃の業務から完全に離れて、純粋に理念について、あるいは自分自身と経営について考えられる時間だ。伊谷野さんにとっては、開催地である京都への往復時間さえも、自分と向き合う貴重な時間となった。

 

こうして、これまで診療の基本方針としてきた「断らない医療」をベースに、法人としての使命は何かを考え抜いた末に、「医療を通じて『安心』して生活する事が出来る社会を創造する」という理念に行き着いたのだった。

 

理念とほぼ同時に「行動規範」も策定した。
「向上心」「柔軟性」「誠意」「敬意」「チームワーク」「効率性」――いずれも単に理想の言葉を並べたものではなく、それぞれに取り上げた背景がある。つまり、過去にこれらに反する言動や態度があったために、クレームになったり評判を落としたりした出来事があったのである。「言ってみれば失敗の集積です」と伊谷野さんは言う。

 

しかし、理念が明文化されたことで、伊谷野さん自身の中に一つの軸が通り、何か問題が生じた時に、「なぜ断らない医療なのか」「なぜ利益を上げないといけないのか」といったことを明確な言葉でスタッフに伝えられるようになったという。

 

「それまでは、『どうしてわかってくれないのだ』と、方針を理解しない相手を責める気持ちがありました。しかし、今振り返ると、それは自分に原因があったのです。自分自身が理念を言葉にすることなく、あいまいにしたまま、なんとなくやってきた。そんなことで相手に方針が伝わるはずがありません。まずそこを改めて、自分で自分の考えを整理するところから始めたことで、少しずつ変化が現れ始めました」

経営者にとって経営理念の確立がいかに重要か。それを示すエピソードだといえよう。

 

採用の考え方も大きく変わった。今は、はじめにこのクリニックの理念や基本方針を説明し、趣旨に賛同する人だけを採用することにしている。その結果、新人、従来のスタッフを問わず、クリニック全体で患者と向き合う姿勢が一致するようになってきた。いわば「芯」が通ってきたのだ。すると、患者からの信頼感もおのずと深まっていく。

 

「まだまだ十分にできているとは思っていません。成長途上です」と伊谷野さんは謙遜するが、明るく活気のある職場の雰囲気は、個々のスタッフの中に理念が根づき、使命感の裏づけがあることの証のように思えた。

 

カンファレンス

全体朝礼後に、ドクターを中心とした医療スタッフが患者の状態の共有や治療方針の確認・検討などをする「カンファレンス」が行なわれる  

松下幸之助経営塾資料

最期の瞬間までサポートできる喜び

冒頭に触れたように、日本の高齢者人口は増加の一途をたどっている。ビジネス的な言い方をすれば、在宅医療のマーケットはこれからも拡大していくといえる。

しかし、伊谷野さんは「それに安住しているようでは、クリニックの未来はない」と考えている。実際、政策次第で経営が大きく左右されてしまう事態を目の当たりにしてきたそうだ。

 

訪問先による診療報酬の規定もその一つだ。訪問診療では、訪問先が一般住宅か、老人ホームなどの施設かで、効率が大きく変わる。施設なら一カ所ヘの訪問で何人もの患者を診察できる。一方、個人宅の場合、一軒一軒訪ねる物理的、時間的な手間もあれば、それぞれの家族との信頼関係も結んでいかなければならないから、トータルの労力は大幅にアップするのである。

 

当初は、患者がどこにいても一人あたりの診療報酬は同じだった。そのため、施設に特化した訪問診療を行なうクリニックが数多くあった。確かに効率だけを考えたら、そのほうが有利だ。

 

ところが、個人宅と施設で診療報酬が同額なのは公平ではないということで、数年前に法律が変わり、施設での診療報酬が四分の一に減額されたのである。施設専門の訪問診療クリニックは収入が激減し、廃業せざるをえなくなったケースが続出したのだという。

 

「安心して生活できる社会を、という理念を掲げている以上、経営が立ち行かなくなるという事態は許されません。患者様やご家族のためにも、常に『選ばれる医療』を実践すると同時に、仮に急激な環境の変化があっても乗り越えられるほどに経営体質を強化しておかなければなりません」
そう語る伊谷野さんの表情は、まさに企業経営者のそれであった。

 

伊谷野さんが在宅医療を始めて心からよかったと思っていることがある。それは、人の人生の最期の瞬間にかかわれることである。
十代の頃から、人間の「生老病死」に寄せる深い思いがあった。在宅医療を必要とする患者は、病院での治療の段階を過ぎて、人生の最終段階を迎えている人も少なくない。「老いて、病み、死ぬ」まさにその段階で、何かできることをする。少しでも不安を取り除くような対応をし、苦痛が緩和されるような処置を施す。
そうすることで、本人や家族が「これでよかった」と思える結末を迎えることができれば、在宅医療に求められる一つの大きな役割が果たせたといえるのではないだろうか。

 

人間がどんな場所で、どんなかたちで最期を迎えるのか。それは今後ますます重要な社会的課題となっていくだろう。伊谷野さんの活動は、そこに貴重な選択肢を与えてくれている。
 

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