財務、税務、人事、労務、事業承継......中小企業では、様々な分野の経営課題をすべて経営者が引き受けなければならないことも多い。そんな時、経営者の立場に立って問題解決をサポートしてくれる専門家集団があれば、心強い。TOMAコンサルタンツグループは、みずから「お客様の手本になる経営」を実践し、中小企業の経営課題にワンストップで応えることを旨とする。その原点にある理念とは何か。それをいかに継承しているのか。創業者から事業を引き継いだ市原和洋社長(グループ代表、「松下幸之助経営塾」卒塾生)に聞いた。
<実践! 幸之助哲学>
経営理念の実践で強みを発揮するコンサルティングファーム――前編
親族外継承のハードルは高い
中小企業にとって重要な課題の一つが、スムーズな事業承継である。日本ではこれまで、経営者の家族や親族が事業を継承するケースが多かった。確かに、家族や親族を後継者にすることは、会社や業界の内情によく通じている、意思疎通がしやすい、株式や資産の譲渡がスムーズ、などのメリットがある。
一方で、家族や親族に後継者がいなかったり、いても本人に継承する意思がなかったりする場合は、役員や従業員など親族外の人間が後継者になることが考えられる。しかしこの場合、継承候補者本人に、個人保証を引き受けてまで事業を継承する気持ちがあるか、また自社株を買い取るだけの資金力があるかが問われることになる。優良な企業であればあるほど資金力のハードルは高くなるし、業績が厳しい企業だと多額の連帯保証を引き受けてまで後継者になろうという人材は極めてまれだ。
自社株を買い取れる社員がいない場合、M&A(他社による買収・合併)やMBO(株を買い取った第三者が経営者になる)という選択肢もある。ただ、これらは相手のいることなので、会社にそれだけの魅力がないと成立しない。
後継者もいない、買い手もいないとなると、清算や廃業を視野に入れなければならなくなる。とはいえ、従業員を雇用している企業であれば、彼らとその家族の生活がかかっているので容易なことではない。
このように、中小企業にとって事業承継は一筋縄ではいかない難題であり、円滑な継承のためには後継者の育成や経営課題の解決など、綿密な準備と心構えが求められるのである。
今回取材したTOMAコンサルタンツグループ(以下、TOMA)は、二〇一七年十月、創業者である藤間秋男代表が会長に就任し、親族外の市原和洋さんがグループ代表を継承した。
TOMAの歴史をさかのぼると、一八九〇(明治二十三)年、藤間さんの曽祖父が司法代書人(現在の司法書士)となり、開業したことに始まる。以来、代々司法書士事務所を継承してきたが、藤間さんは、四代目である父から、「お前は公認会計士になれ」と言われたのだという。藤間家では、司法書士だけでなく、会計士や税理士、弁護士など有資格者が集団となって顧客を支援するという構想を、以前から描いていた。藤間さんはその最初の一歩を託されたのだった。
父親の命に従って公認会計士になった藤間さんは、一九八二(昭和五十七)年に藤間公認会計士税理士事務所を開業。三十五年を経て、税理士、公認会計士はもとより、社会保険労務士など、様々な分野の専門家約二〇〇名を擁するコンサルティングファームに育て上げた。高度な専門能力を持つメンバーたちを一つの集団にまとめていくには、強力なリーダーシップが必要だ。藤間さんにはそれだけのパワーと人を惹きつける魅力があったと考えられる。
そのような背景を持ちながら、親族外の市原さんにスムーズな継承がなされ、TOMAは今、新たなステージへと踏み出している。継承はいかになされたのか。そして、リーダーシップのあり方はどう変わったのだろうか。
「藤間の会社」から「みんなの会社」へ
市原さんは、税理士の資格を取得後、しばらくは簿記専門学校で税理士講座の講師を務めていた。その後、一五人規模の会計事務所に入所して、ひと通り会計業務を経験したのち、TOMAに入社した。多彩な専門家が集い、あらゆる経営課題に応えるTOMAで経験を積み、将来的には独立しようと考えていたそうだ。
はじめにどこかの事務所に所属し、スキルを身につけたところで独立するというステップは、税理士の業界ではめずらしい話ではない。
だが、市原さんは結果的に独立の道は歩まず、TOMAにとどまることになる。その理由の一つが、創業者である藤間さんが「自分は六十五歳になったら代表を社員に譲る」と社内外で公言するようになったことだ。
「TOMAはこれからは"みんなの会社"になっていくんだ」――このメッセージに共感した市原さんは"みんなの会社"のために自分ができる役割を果たしていきたいと考えるようになった。
二〇一二年、ホールディングカンパニーとしての機能を持つTOMAコンサルタンツグループ株式会社が設立される。ここを起点に、税理士法人や社会保険労務士法人、財務・人事・医療のコンサルティング会社など、分社化された専門法人が有機的につながるグループ経営体制が確立された。企業の様々な経営課題をトータルにサポートしたいという、藤間家が長年抱いてきたビジョンが実現した姿といえる。
それは同時に、創業者個人の力量に頼る経営から転換し、法人として永続的に発展するための基盤が整えられたことでもあった。この頃から、藤間さんの頭の中で後継者を誰にするのか、具体的な人選が始まったのではないだろうか。
藤間さんは、「能力が高いかどうかと、リーダーとしてふさわしいかどうかは別」と述べている。「着眼大局――広い視野で物事をとらえ、その本質や要点を見抜けるか」「TOMAの理念を守ってくれるか」「私心がなく、"この人の言うことだったら聞ける"と自分自身が思えるか」――そんな観点から、広く社員の声も集めて参考にしつつ、後継たる人物を絞り込んでいった。そして白羽の矢が立ったのが、市原さんだった。
ある日、別室に呼ばれた市原さんは、藤間さんから後継の依頼を受ける。
「妻に話しておきたいので、一日だけ待ってください」
その場での返事は避けたが、市原さんの気持ちは固まっていた。独立の道を選ばずに会社に残ったのも、"みんなの会社にする"と言った藤間さんの言葉に感銘を受けたからだ。
一人ひとりの社員が、「これは自分たちの会社だ」と実感できる会社をつくる。会社の未来を自分たちがつくっていく。そんなTOMAにしていくために、みずから率先する立場に就くことは、この上なくやりがいのある仕事だと市原さんには思えた。
翌日、引き受ける旨を藤間さんに伝え、市原代表が誕生する運びとなる。「六十五歳で代表を社員に譲る」という藤間さんの宣言は、言葉の通りに実行されたのだった。
経営理念で会社が変わった!
ゼロからスタートした会計事務所が、三十五年後には二〇〇名以上の社員を抱え、一〇〇〇を超える顧問先を持つコンサルティングファームになった。
ただ、ここに至るまで、単に右肩上がりの成長が続いてきたわけではない。
創業十年目から二十年目にかけての約十年間は、顧問先がほとんど増えない低迷期だった。有能な幹部が一斉に退職するという憂き目にも遭遇している。藤間さんは「原因はみずからにある」と考えた。つまり、独断専行がすぎたということだ。
もっとも、即断即行は事業の基本。特に創業まもない頃は、いちいち人の意見に耳を傾けていたら何事も前に進まない。いきおいワンマン経営になりがちで、だからこそ急成長を成し遂げることができたともいえる。
ところが、人が増え、ある程度組織の形ができてくると、独断専行だけではところどころにひずみが生まれることになる。藤間さんは「自分を変えなければ」という思いから、様々なセミナーや研修会に参加するようになった。その中で気づかされたのが、経営理念の大切さだった。
経営理念とは、その会社が何のために存在するのか、会社の目的や存在理由を示したものだ。経営者と社員が理念を共有することで、会社が一つの価値観でまとまり、同じ方向に向かって仕事を推進することができる。また、理念を共有しているからこそ、経営者は社員を信頼し、任せることもできる。
熟慮を重ねた末、二〇〇四年に、現在の経営理念の原型が完成。折々に検討を加えながら文言の追加や改訂を行なって、現在に至っている。
市原さんがTOMAに入社したのは、ちょうどこの理念ができる直前の二〇〇三年だった。まだ将来の独立も視野に入れていた頃だ。入社後まもなく理念ができると、朝礼で皆で唱和したり藤間さんが熱く理念を語ったりする姿は、最初は価値観を押しつけられるように見えて、「気持ちが引いてしまった」という。
しかし、そんな市原さんも仕事を続けるうちに、次第に経営理念の重要性に気づくようになる。
契機の一つは、部下を持ったことだ。自分の責任を果たすだけでなく、部下とともにチームとして、部門としての責任を果たしていかなければならない。そのためには、やはりメンバー全員が一つの方向を向いて仕事をすることが、チームとしての総合力を発揮する上でのカギになる。
もう一つは、お客様との対話だ。相手は中小企業経営者。はじめは税金や制度についての話でも、親しくなってくるにつれ、経営の深い部分に触れることが増えてくる。すると、経営者の誰もが、自分の考えていることをどう社員に理解してもらうか、自分の考える商売・ビジネスのあり方を現場でどう実践してもらうかに頭を悩ませていることを知る。経営理念の確立と浸透が、企業にとっての最重要課題であることを肌で感じる日々だった。
こうして、市原さんをはじめ最初は引き気味だった他の社員も、次第に自社の経営理念の意義を理解し、みずからの中に落とし込んでいくとともに、部下や同僚など社内にも浸透させていくという意識に目覚め始めたのである。
それを証明するかのように、二〇〇四年以降のTOMAは完全に停滞期から脱し、業績は再び右肩上がりになった。二〇〇八年のリーマン・ショック、二〇一一年の東日本大震災と、日本経済に大きな打撃があった年でも、業績への影響はほとんどなかったほどである。
◆"みんなの会社"を掲げ、社員・顧客との共栄を追求(後編) へつづく
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