「親の死に目には会えない」という強い決意で飛び込んだ歯科医療の世界で、徹底的に患者に寄り添う歯科医師がいる。患者の人生にもプラスの影響を与えたいという願いのもと理想の歯科医院をつくり、来院患者数は右肩上がり――だが一方で、スタッフが次々と去っていく現実。この状況の中で彼が取り組んだのは、企業理念を軸にした歯科医師・スタッフの新卒採用という、業界では極めて珍しい取り組みだった。横浜市鶴見区で評判の歯科医師・上野友也さん(「松下幸之助経営塾」卒塾生)に、歯科医院「経営」に目覚めた経緯と、歯科医療の枠を超えた数々の挑戦について話を聞いた。

経営セミナー松下幸之助経営塾

<実践! 幸之助哲学>
「自己観照」によって育んだスタッフの信頼と成長――前編

歯科医院らしくない歯科医院

「歯医者」という言葉を聞くと、どんなことが頭に浮かんでくるだろうか。
「キーン」という歯を削る機械の音。消毒液なのだろうか、独特の薬品のにおい。不安な気持ちで診察台に座ると、マスクをした無表情(に見える?)の歯科医が現れ、まばゆい光で顔を照らされて、大きく口を開けさせられる......。心地のいい思い出がある人は、少ないかもしれない。ましてや、過去に治療で痛い目にあったりすれば、歯医者に行くのに恐れを抱くという人もいるだろう。

このように、どうしてもネガティブなイメージがつきまといがちな歯科医療の状況に、危機感を持つ歯科医師もいる。横浜市鶴見区で「うえの歯科医院」を経営する上野友也さんもその一人だ。

開業にあたって、上野さんは「誰もが安心して受診できる歯科医院」を目指した。具体的には、大学病院のようにハイレベルかつ幅広い歯科医療を提供しつつ、衛生面、環境面にも配慮したゆったりとくつろげるスペースを確保し、お年寄りから子供まで地域の誰もが気軽に来院できる要素を可能な限り盛り込んだのだ。

JR鶴見駅からバスで十分ほど。「そうてつローゼン前」というバス停で降りると、目の前に「うえの歯科医院」がある。建物の一面がガラス張りになったモダンなデザインである。中に入ると、天井は吹き抜けになっている。受付カウンターの前に並べられた待合のソファは、すべて窓側を向いている。診療室の様子に気を取られることなく、外の景色を眺めたり、雑誌に目を通したりしながら、思い思いに待ち時間を過ごしてもらいたいという心遣いである。

「建築デザイナーの方に、あえて"歯科医院らしくない"デザインをお願いしました」と上野さんが語る通り、まるでホテルのロビーを思わせるような空間だ。

医院内はバリアフリー設計で、お年寄りや車椅子の人でも段差に困ることはない。待合室の奥には子供が遊べるキッズルームがある。さらに、診療スペースの一角には、治療中の大人の目の届くところで子供を遊ばせておくことができる「ファミリールーム」という診療室もある。

こうしたコンセプトが地域の人たちに好感を持って受け止められた結果、来院患者数は増加を続け、今では定期検診は年間延べ二〇〇〇人以上にのぼるという。

「患者第一」の姿勢を貫き、業界の常識にとらわれずに歯科医療の世界に新しい風を吹き込む上野さんの経営スタンスは、どのようにして生まれてきたのだろうか。

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受付を背にして外を眺めながらリラックスできる待合

松下幸之助経営塾資料

「親の死に目には会えない」仕事

上野さんは大学の歯学部を卒業すると、大学病院で研修医として二年間働き、その後は東京都内の歯科医院に勤務する。院長は大学の講義を担当していて日頃は不在。上野さんは、もう一人のベテラン勤務医と二人で診療していたが、その人が上野さんが入った三カ月後に辞めてしまった。そうなると、どんな患者が来院しても、若い上野さんが一人で対処しなければならない。平日はひたすら診療、休日は休み返上で研修に参加し、デモンストレーションされる技術を必死で身につけた。こうして、自学自習でスキルの習熟や最新情報を得る日々が続く。

三年後、別の歯科医院に移った。ここは二十四時間の診療体制で、重度の障がいのある患者の歯科治療をするなどの特色のあるところだった。この頃、上野さんがどんなスタンスで一人ひとりの患者と向き合っていたかを示す一つのエピソードがある。

この医院にはよく、脳外科の手術を終えた患者さんが、歯の治療のために運ばれてくることがあった。術後に言葉を失い、コミュニケーションが取れなくなるケースも少なくない。ある時、「口を開けてくれないので治療ができない」と、後輩の歯科医が困り果てていた。

相談を受けた上野さんは、後輩をたしなめた。「喋れないからといって、患者さんを機械的に扱っているんじゃないか」と。
「でも、実際にこっちの言っていることがわからないですよね」と後輩も納得のいかない様子。
「いや、そうじゃない。患者さんはこちらの言うことがわかっている。それを前提に治療を進めないといけないよ」

上野さんはそう言って、その患者さんのもとを訪れ、ほかの患者さんと同様に今の口の状態や治療方針を丁寧に説明した。そして「じゃあ、○○さん、ちょっと口を開けてもらえますか?」と呼びかけると、患者は口を大きく開けてくれたという。

「結局、人と人とのかかわりなんです」と上野さんは言う。
医療の世界では、よく「症状は診るが患者は見ない」という批判の言葉を聞く。歯科医療においても同様らしい。患者の歯の状態だけを診て、それが改善されればよしとする。上野さんには、それは歯科医の役割の一部しか果たしていないように見えたのだろう。

「親の死に目には会えないかもしれないよ」
歯科医師の国家資格を取得した時、上野さんは両親にそう告げた。
「なぜなら、歯科医院とは、患者様にアポイント(予約)を取っていただき、来院してもらうことで成り立つ事業だからです。お取りいただいたアポイントをこちらからお断りするというのは、安易に許されることではありません」

歯科医師の道を歩むことになった時、上野さんが心に決めた覚悟だった。
歯科医は単に虫歯を治せばいいのではない。その人の人生に寄り添い、歯科医療を通してその人の人生がよくなるようにサポートをしていくこと。技術だけではない、人間性を大切にするという上野さんのスタンスは、当初から定まっていたようだ。

だが、この美しい考え方を現場で体現することは、決して簡単ではない――そのことを、このあと上野さんは痛感するのである。

患者の立場に立った歯科医療を追求

二〇〇二年、うえの歯科医院開業。
開業する人の多くは「自分がつくりたい歯科医院」を思い描くことから始めるかもしれない。しかし、上野さんは違った。自分の考えよりも、「患者さんは何を求めているのか」を優先したいと考えた。その思いが、現在のうえの歯科医院に集約されている。患者さんの不安を和らげるような環境、安心して来院できる条件を整えたのである。

そして、上野さんが何よりも重視したのは、一人ひとりの患者に十分な時間を取って説明をすること、いわゆる「インフォームドコンセント」だ。ただ、「医師の立場で」わかりやすく説明をしたと思っても、「患者にとって」わかりやすいとは限らない。また、実際に医師を目の前にすると、なかなか質問しづらい面もあるだろう。

そこで、取り入れたのが「カウンセリング」である。うえの歯科医院には、「カウンセリングルーム」があり、初診の診察前には必ず、トリートメントコーディネーター(歯科医師と患者の間に立って説明を行なう橋渡し役)が患者の状態や意向の確認をする時間を設けている。患者はここで、これまでの歯の治療で経験した怖さや不満、これから先の処置の不安や疑問を吐露することも少なくない。そうした患者の「モヤモヤ」を受け止め、取り除いていくのがカウンセリングの役割である。

カウンセリングは初診時だけではない。治療が始まる時にも、治療方針の説明や、医院としての考え方を伝えるとともに、患者の疑問点解消のためにカウンセリングの時間を設けている。さらに、治療終了後も、その後のメンテナンスのことなどを話し合う三回目のカウンセリングを実施している。

カウンセリングを受けた患者からは、「プライバシーに配慮した個室で詳細な説明を聞くことができ、不安が軽減された」「今までの歯科にはない丁寧な対応で、安心して治療を受けることができた」などと好評の声が寄せられている。

患者さんの思いを優先する。患者である前に一人の人間としてその人を見る――上野さんのスタンスは地域に伝わり、来院患者数は右肩上がりに伸びていった。開業にあたって金融機関から借りた借金は、わずか三年で完済。経営は順風満帆に見えた。

しかし――。残念なことに、スタッフが次々と去っていく。半年もたてば、ほとんどのスタッフが入れ替わってしまうようなありさまだった。

「患者さんに対しては、笑顔になって帰っていただきたいという気持ちを強く持っていました。でも、同じ気持ちをスタッフに対しては持てなかったんですね」と上野さんは当時の心境を振り返る。

医療に携わる人間である以上、人として患者さんと向き合う姿勢は、自分と同じであるべきだと頑なに考えていた。だから、スタッフに少しでもそれとずれた言動がみられると、許すことができなかったのだ。

医療に対する自分の姿勢が間違っているとは思えない。けれども、スタッフにはそのことが伝わらない。「何かがおかしい」――ジレンマを抱える日々が続いた。

「患者第一」の理念で歯科医療の可能性に挑む(後編) へつづく

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