「松下幸之助経営塾」は、松下幸之助の経営哲学を学ぶための、経営者・後継経営者を対象にした公開セミナー。松下幸之助の直弟子や、すぐれた経営理念によっていま活躍中の経営者ら、一流の講師陣による講話も魅力のひとつです。今回は、平田雅彦氏(ユニ・チャーム監査役/H.I.S.取締役)の特別講話の要旨をご紹介します。
松下幸之助経営塾 講義再録
日本発の共存共栄が世界のスタンダードに
全販売会社・代理店を前に改革を宣言
私は一九五四年に、松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社。以下、松下電器)に入社しました。そのころの松下電器は従業員九〇〇〇人、売上は年間一五〇億円といった規模で、創業社長の松下幸之助は五十九歳でした。
翌一九五五年は、のちに「電化元年」と呼ばれるようになった年で、テレビ(白黒)、電気洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が次々と量産されるようになり、日本の家庭に電化生活の波が押し寄せ出した年でした。一九五九年には皇太子(現・天皇)のご成婚、一九六四年には東京オリンピック開催があり、テレビの普及率は一気に拡大、電機業界は大きな高度成長を味わうことになったわけです。ところがその一九六四年後半から、大変な不況がやってきました。
それまでも不況がなかったわけではありません。日本は資源輸入国ですから、景気がよくなると経済活動が活発になり輸入も伸びる。そうすると貿易赤字となり、日本銀行が金融引き締めを行う。当時の日本企業はまだまだ足腰が弱かったので、この引き締めは効きました。企業の成長が鈍る。国内需要も減少する。そこで企業は、知恵を絞って輸出に力を入れる。ここで日本経済のバイタリティが発揮される。輸出がぐっと伸びて貿易収支のバランスがとれ、景気が上向くわけです。
戦後の経済成長期は、こうした、いわゆる景気循環による好不況をだいたい三年周期でくり返していました。ところが一九六四年の不況は、それまでとは違っていました。
そのころの電機業界について申しますと、不況になるとメーカーは、電気屋さんの店頭を自社商品で占拠するため、他社に先駆けて商品を押し込みます。景気低迷で需要は鈍っていますが、そのうち、一年半も我慢すればまた景気が回復して店頭商品が売れるようになるからです。
商品が店頭では売れていないのに押し込むのは、お店の在庫を増やすだけになりますから、お店は資金繰りに困ってしまいます。そのためメーカーは現金ではなくて、長期の手形で辛抱します。そのうちにお店は資金が苦しくなり手形が落とせなくなります。そこでお店を潰すわけにはいかないから、メーカーは資金を融通します。やがて景気が回復して店頭商品が売れ、資金も回収されて、もとの鞘におさまる。くり返される景気の循環がこのような悪しき癒着構造をメーカーとお店とのあいだに生み出していました。
一九六四年の不況は、このような同じパターンの景気循環をくり返しながら高度成長をしてきた日本経済が、初めて迎えた新しいタイプの構造不況でした。
松下幸之助はそのころ会長となって経営の第一線から退いていました。しかし「今回の不況は今までとは違うぞ」と直感で感じとります。そこで自分も出席するから「もっとお客様のほんとうの声を聞こう」と言い出し、販売会社、代理店の全社長を集めることになりました。
総勢二百名。場所は熱海。それが松下電器の歴史に残る「熱海会談」です。
会議の冒頭、幸之助会長は次のように切り出しました。「事態は容易ならざるところまで来ている。このままでは松下電器もお店もともに大変なことになる。だから皆さんと問題を共有するため、徹底的に話し合いたい。何日かかるか分からないが、分かりあえるまでやりましょう」
会議が始まると、松下電器に対する不平不満が続出しました。溜まりに溜まっていたものが噴出したような会議になりました。会長は「あなた方の経営の取り組み方にも問題がある」と反論し、議論は平行線のまま時間だけが経過しました。重苦しい空気が漂い、一同どうなることかと暗澹たる気持ちに陥り始めていました。
三日目も昼近くになりました。その時、幸之助会長は突然、「昨日来、厳しいことを申し上げてきたが、しかし一切の原因は松下にある。松下の慢心がこの原因です」と述べ、「長いあいだかわいがっていただいた恩顧を忘れている。誠に申し訳ない」語るにつけて、会長の声はしだいに涙声に変わりました。
これで空気が一変しました。戦前、戦後苦楽を共にしてきた同志であり、親子兄弟の付き合いをしてきた代理店主の多くの人々から、もらい泣きの声が聞こえてきました。過去お店に助けられた思い出のエピソードが次々に披露されました。
締めくくりに幸之助会長はみずからに言いきかせるように、「皆さま方のご恩に報いるため、皆さま方に喜んでいただける会社に必ず致します。共に生き、共に栄えることをめざして全力をもって改革に当たります」と誓われました。
涙ながらの会長の言葉に、人々は万雷の拍手で、共に立ち上がる決意を表明しました。帰りにあたり、会長は「共存共栄」とみずからの手で書いた色紙を出席者一人一人に手渡されました。
かくて不満の坩堝となっていた熱海会談は一転、松下電器とお店は一体となり、新しい構造改革に向かう姿勢が出来あがったのです。
お店が繁栄することがいちばん
お店が繁栄することがいちばん
熱海会談終了後、幸之助会長は営業本部長代行となることを発表します。会長がみずから責任者となって改革の先頭に立つことを、内外に表明したわけです。
当時私は本社の予算課長。私と会長は三十七歳差で、ふつうなら接する機会などなかったはずです。ところが営業本部長代行になられたので、しょっちゅう呼び出されることになりました。
人間の運なんてどう転ぶか分からないものですね。こういう事態にならなかったら、私は絶対に、創業者である松下幸之助と直接話などできなかったでしょう。
熱海会談のあと会長がくり返し言っておられたこと、それは、「お店に儲もうかってもらわんとあかん」ということでした。そして私たちに、「売上の五パーセントを捻出せよ」という宿題を出すわけです。「その金で、お店が繁栄する策を講ずるのだ」。
営業所の運営についても厳しい注文がつきました。当時、松下電器の営業所は売上高の五パーセントのマージンで運営されていましたが、それを二パーセントで運営せよというのです。当然、営業所長たちは猛反対。さらに、「今、販売会社や販売店(小売店)に金を出したら値引きに使われるだけ。金を出してはいけない」と、逆に会長を説得にかかる始末です。
このとき、会長は「きみら、ざるに目張りをせんと金を出すからどんどん出ていってしまうんや。目張りせんかい」。その言葉が今もたいへん印象に残っていますが、実はそれがヒントになって、得意先が喜んで松下に預ける得意先積立金(共栄感謝積立金制度)が生まれたのでした。
◆日本の商人道の原点に学ぶ(2)へ続く
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年3・4月号より