松下幸之助経営塾」は、松下幸之助の経営哲学を学ぶための、経営者・後継経営者を対象にした公開セミナー。松下幸之助の直弟子や、すぐれた経営理念によっていま活躍中の経営者ら、一流の講師陣による講話も魅力のひとつです。今回は、小川守正氏(パナソニック客員)の特別講話の要旨をご紹介します。

 

松下幸之助経営塾 講義再録

面接で「なぜ戦争に負けた」

私は今年、90歳になります。松下幸之助創業者に接した最後の世代として、これからお話ししたいと思います。

 

私は戦前、大学の航空工学科を卒業して飛行機会社に就職したものの、まもなく戦争で海軍に徴兵されました。終戦後は町工場の旋盤(せんばん)工をしたあと、小さな自動車会社に勤務しました。ところが、この会社が倒産。1955(昭和30)年、新聞の求人広告に出ていた松下電器(現パナソニック)の社員募集に応募したのです。

 

入社試験を受けにいき、松下創業者の面接を受けました。私の年齢が30歳を超えていたからか、「きみはだいぶ年をとっているけれど、軍隊の経験はあるか」と聞かれたのです。「あります」と答えると、「なぜ日本は戦争に負けたと思うか」と質問されました。「日本の大将や中将などの上級指導者が頼りなかったからだと思います。日本の兵隊や下士官は強かったと思います」と答えたところ、「そのとおりや。会社も同じで、潰(つぶ)れるのは幹部のせいや。トップや経営幹部にすべての責任がある」と言われたのです。

 

松下創業者の話は単純明快で、頭と心にスッと入るというのが、入社試験での印象でした。

 

ステーキを残した話

松下電器に入社後、技術畑を歩みました。同社の電化研究所で電子レンジの開発を行なっていましたが、電子レンジを扱う独立した事業部が新設されることになり、奈良県の大和(やまと)郡山(こおりやま)の工場に異動。1969(昭和44)年からはその事業部長を担当しました。

 

さらに1977(昭和52)年には、電子レンジのほか大和郡山に生産拠点を置いていたガス機器、石油機器、給湯暖房、暖房器の各生産事業部と住宅設備機器研究所とが統合し、松下住設(じゅうせつ)機器株式会社(以下、松下住設)が設立され、私はその常務取締役を務めることになりました。松下電器は、住宅設備機器については後発企業だったので、販売面などで苦労したことを覚えています。

 

その新会社設立の1年ほど前、松下創業者から、「今度独立した会社になり、前の事業部長さんたちはみんな重役になることになったな。おめでとう。皆さんを食事に招待することにしたから、小川君、連れてきてや」という電話がかかってきました。それで、六人の重役一同で大阪のあるホテルに出かけたのです。松下創業者は盛(さか)んに私たちを励ましてくれました。

 

宴が終わりに近づいたころ、そばに座っていた私に小声で「コックさんを呼んでくれ。事務の人やないで。このステーキを焼いてくれたコックさんを呼んでくれ」と言われるのです。見れば、大きなステーキが半分ほど残っている。「クレームをつけるのだ。松下創業者も、お客になるとなかなか厳しいな」と思いました。ただ、せっかくの楽しい雰囲気に「そんなこと言わなくてもよいのに」と感じたものです。

 

コックさんもクレームと思ったのでしょう。慌(あわ)ててとんできました。すると、松下創業者はこう言ったのです。

 

「あんたがせっかく焼いてくれたステーキだけど、半分残すわ。まずいんと違うで。おいしかったんや。けれど、年寄りやから全部はよう食べんのや。気を悪くせんでや。年寄りやからやで」

 

てっきり叱られると思っていたコックさんは、松下創業者の温かい言葉に涙ぐんでいました。このときにはもう、松下電器に入って二十年経過していましたが、松下創業者の言葉を聞いて、経営者としては厳しいが、人にはやさしい方なのだと、感動したのを覚えています。

 
叱られて経営を学ぶ(2)へ続く
 
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