「松下幸之助経営塾」は、松下幸之助の経営哲学を学ぶための、経営者・後継経営者を対象にした公開セミナー。今回は、新屋純之輔氏(パナソニック客員)の特別講話の要旨をご紹介します。
松下幸之助経営塾 講義再録
松下幸之助創業者は私の師匠
私は昭和十二(一九三七)年から昭和五十六(一九八一)年まで、六年の戦争期間を挟んで四十四年間、松下電器(現パナソニック)に勤めました。松下幸之助師匠から直接ご指導を賜ることもあり、幸せな仕事人生を送らせていただきました。
私が松下創業者のことを“師匠”と申し上げるのは、かつて二人の先輩の話を聴いたのがきっかけです。
先輩の一人は、定年退職で松下創業者のところにあいさつに伺った際、こういう言葉をいただいたそうです。「風雪に耐え抜き、波浪と闘って幾十年。務めをまっとうして解体され、それから料理屋の看板になる船べりの板。そんな人生が大事やで」。
昔は釣り船の板がのちに料理屋さんの看板になることがよくあったのです。役目を果たしてなお看板になるような人生を送ってくれ、という激励の言葉だったのでしょう。
もう一人の先輩は、「長いあいだたいへんお世話になりました。これからおおいに余生を楽しむつもりです」とあいさつしたら、「余った人生なんて、きみ、あるのか」と言われたそうです。
この二人の先輩の話を聴き、「仕事を教えてくれる経営者はたくさんいるけれど、人生を教えてくれる経営者はそうはいない。これは弟子としてついていくべきだ」と思いました。以来、不肖の弟子ではありますが、私は松下創業者のことを“師匠”と呼ばせていただいております。
さて、今回は、その松下師匠から教わった哲学や理念について、とくに、(1)経営の目的、(2)会社は社会の公器、(3)衆知を集めた全員経営、(4)人をつくる会社、(5)社員稼業の実践、(6)人心の妙――などについて、私の経験を交えながらお話しさせていただきます。
経営の目的
松下師匠は、「会社が何のために存在しているのか」ということをとくに重視されました。これに関して、こんな思い出があります。
昭和三十六(一九六一)年、私は横浜市の松下通信工業(現パナソニックモバイルコミュニケーションズ)に出向しました。そのころ同社で耳かけ型の補聴器を開発したというので、松下師匠が来社されたときのことです。
小型ラジオみたいなものにコードの付いたそれまでの補聴器と異なり、耳の後ろにかけるタイプなので目立たなくなり、「これならご婦人でも体裁よろしい」などと説明していると、松下師匠が「これはなかなかええな、なんぼつくるんや」と質問されました。
こういうときわれわれはすぐに原価計算をして、月産三千とか五千とか、下からの積み上げで決めがちです。しかし、松下師匠の考えは違う。目的が何かが重要なのです。つまり、聴覚の不自由な方に安全な生活を送っていただくために補聴器を製造しているのだと。だから、生産量を決めるにはまず、日本に聴覚の不自由な方が何人おられるのか把握しなければならない。目的から計算するわけです。
また、私が松下電器の製品検査本部にいたときのことです。新開発したコーヒーメーカーの検査があり、松下師匠の質問に対応できるよう、あらかじめ担当のエンジニアが、消費電力が何ワットとか、容量が何リットルとか、時間が何分かかるとか、回答を用意しておきました。
ところが、松下師匠はお見えになられると、とくに質問せず、並べてあった各社のコーヒーメーカーでコーヒーをいれ、それをカップにみずから注いでおられる。つまり、うまくきれいに注げるのか、使い勝手がよいのか、といったお客様のほんとうに必要とすることを確認していたのです。新商品の検査とはお客様のためにあるものだとあらためて思いました。
昭和三十(一九五五)年ごろテレビ事業部にいたときにも、同じようなことを学びました。ある日、本社から「新しいテレビのデザインを見るから用意しろ」という指示があり、デザイナーらと一緒にテレビのモックアップ(模型)三台を本社会議室に運び込んだときのことです。
まず、営業担当の常務が入ってきて、テレビを見るなり、「こんな仏壇みたいなテレビが売れるか!」と怒りました。デザイナーはそれに対し、「テレビにはブラウン管と画面が必ず大きくあって、あとは小さなつまみがいくつか付いているだけ。デザインを変えるところがあまりないのです」と答えました。すると、その話を聴いていた松下師匠がデザイナーに、「地球上に何人の人がおるのや」と尋ねたのです。
おかしなことを訊かれる方だと思っていたら、「パーツの数は一緒やわな」と。パーツとは、二つの目、一つの鼻、一つの口のことです。当時の世界人口は三十億人弱でしょうか。テレビよりも小さな人間の顔にパーツが同数付いているのに、三十億人の顔がそれぞれ違う、つまり三十億の異なるデザインだというわけです。松下師匠いわく、「神さんはデザインがうまいんや」。
松下師匠のそういう発想がどこから出てくるのかと感心させられると同時に、経営の目的に照らせば、何をすべきかを師匠は教えてくれたのです。
会社は社会の公器
松下電器は昭和十(一九三五)年十二月に株式会社になりました。そのとき、松下師匠が『松下電器所内新聞』(同年十二月十五日付)で、株式会社に改組しても従前と変わりないが、業容が大きくなったので経営の実情を社会に公開するのが公明正大の精神に合致する、という趣旨のことを述べています。「会社は社会の公器」という考え方がますます要請されてくるわけです。
だからこそ、松下師匠は社の事業計画について、それは「世間との契約」「社会との契約」なのだと、よく強調していました。昭和十年当時、大阪の天王寺公園で社内運動会を行なっていましたが、そういう運動会でさえも、進行が計画どおりにいっているのか、そればかり気にされていたそうです。
運動会ですらそんな感じでしたから、実際の事業が計画どおりか、チェックが厳しかったのは言うまでもありません。たとえば、研究開発費用がかさめば、「エジソンに開発費があったのか」と指摘します。「エジソンは、新聞配達をやって稼いだわずかなお金でようやく実験ができた。なのに、あれだけ人類に貢献したんや。あんたらにお金はやらん。ザルに水や。今度ワシは中央研究所の前にエジソンの像を立てる」という具合にお叱りを受けたものです(実際、エジソン像を昭和四十三[一九六八]年に建立)。
一方、松下師匠はご自分でも計画を進める努力をしておられました。大きな商品開発プロジェクトの際は、関係部門の人を集めて「技術、いつできるんや」「宣伝、どのようにするんや」「営業、それでええんか」と順番に尋ね、「よっしゃ、それでいこう」と言って、計画推進を支えていたとのことです。「会社は社会の公器」であるからこそ、計画遂行という「社会との契約」をないがしろにしなかったのでしょう。
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年3・4月号より