松下幸之助経営塾」は、松下幸之助の経営哲学を学ぶための、経営者・後継経営者を対象にした公開セミナー。今回は、新屋純之輔氏(パナソニック客員)の特別講話の要旨をご紹介します。


人間尊重の哲学―松下"師匠"に学んだこと(1)から続く

松下幸之助経営塾 講義再録

衆知を集めた全員経営

終戦後、松下電器に入ってきた元職業軍人の人たちの話を聴いたことがあります。彼らは松下師匠からこう言われたそうです。「軍隊はすべて命令によって動く。ところが企業は、衆知でないといかん。一人の知恵というのはたいしたことない」。

ほかにも「幹部というのは、部下がなんでも話してくれるような顔つきにならないかん。オマエみたいな顔しとったら、部下がもの言うてくれるか。朝、顔を洗ったら五分ほど鏡とにらめっこして、なごやかな顔になってこい」と注意された人もいるそうです。

また、松下電器におそらく官庁から転職し、人事を担当したあと、ある工場の工場長に異動した元社員は、こんなふうに言われたそうです。

「今度、工場に行ってくれるそうやな。ひとつがんばってほしいけど、きみの(事務が中心の)前職を皆、知っている。だから、工場長室に入っておったらいかん。油が飛んでくるようなプレスの横に机を持っていきなさい。そうしたら、みんなが教えてくれる。そういうみんなの教えを吸収しようとしなければ、工場長など務まらんのや」

松下師匠はここまで細かく指導して、衆知を集めた全員経営の重要性を教えてくれる方でした。

人をつくる会社

松下師匠はかつて社員に、「『松下電器は何をつくるところか』と尋ねられたならば、『松下電器は人をつくるところでございます、併せて商品もつくっております、電気器具もつくっております』、こういうことを申せ」と話したことがあります。そのとおり、「人をつくる」こと、つまり教育にたいへん熱心な方でした。

私は旧制の小学校を卒業すると、松下電器の店員養成所に入所しました。午前中が学科の勉強で、午後が工場の実習。修養講話というのもありました。教室の黒板の上に「産業報国」と書かれた額が掲げてあったのを覚えています。

卒業までの三年間で五年制の旧制中学と同程度の学力を身につけるカリキュラムを組んでいたので、夏休みも冬休みもありませんでした。私は、同年代の人たちが夏休みの期間中、カバンをさげて養成所に通うのがほんとうにイヤでした。「あいつは勉強があかんさかい、夏休みなしで教えてもろうとるねん」と見られていると思ったからです。それでもあとから振り返れば、午前中の学科で学んだ知識が、午後の実習教育により現場の知恵として吸収でき、とてもよい養成所でした。

つい最近、戦前の職業訓練校の研究をしている大学院生が、私が店員養成所の出身だということを知って、会いにきました。その彼の修士論文によると、職業訓練校はたくさんあれど、企業人教育をしていたのは唯一松下電器の店員養成所だけだったようです。

さて、松下電器に入社すると、中卒以下の社員は寮に住みます。頭髪を伸ばしてはいけない、服は背広でなく詰め襟を着るなどの規則があり、朝晩には点呼がありました。

そのころ上司に毎月、動静報告書というのを提出することになっていました。ちょうだいした給料の額とその使途、それから映画や本などの感想文を二部提出し、それを上司と人事がチェックし、一部を実家に送っていました。松下師匠はこうすることにより、「おたくから子どもを預かり育てています」という気持ちで、われわれ寮生を教育していたのだと思います。

寮を出る二十歳になると、現在の成人式にあたる元服式というのがあり、社内の修養室という畳部屋で松下師匠のこんな話を聴きました。

「きみたちはきょうから一人前。大人として認められる。だから、法律上は私と同じ扱いや。ただ、一つだけ違うことがある。経験や。水泳の講義を三年聴いても泳げるようになるわけではない。まずは水中に飛び込んでみることや。最初は苦しいかもしれないけれど、そういう経験をして初めて泳げるようになる。経験の差は大きいということや。私は失敗もずいぶんしたけれど、きみたちより経験を積み、それがすべて私の糧かてになっている」

元服式では背広服をいただきました。ちなみに結婚式のときにはモーニングをくれました。背広服もモーニングも当時は非常に高価なものでしたから、ありがたかったです。

社員稼業の実践

昭和三十八(一九六三)年一月十日の松下電器の経営方針発表会で、当時会長の松下師匠は、夜鳴きうどん屋さん(夜の屋台うどん店)の例を出して社員稼業の意味を説きました。商売熱心なうどん屋さんの主人であれば、自分で味や温ぬくみ加減を研究するだけでなく、お客様に『きょうの味はいかがですか』と尋ね、『うまい』と言ってもらえるまで努力するものだ、といったことを述べ、一人ひとりの社員がこの主人のように、「これは自分の稼業なのだ」という独立経営者のつもりで仕事にあたる、それが社員稼業だとお話しされたのです。

私は当時、出向していた松下通信工業の自動車ラジオ事業部で、製造現場の作業員に、「きょうはいくつ製造して、不良品はいくつ」と訊いていましたが、「一〇〇つくって、不良品は三つ出た」というような返事ばかりでした。不良品は、自分たちがつくったというよりも、勝手に出ているといった言い方です。

そこで、松下師匠のうどん屋さんの話をし、手法としてQC(品質管理)を導入したところ、作業員たちに目に見えて経営意識が芽生え、具体的成果をあげるようになりました。それで、日本科学技術連盟主催のQCサークル大会に参加してみると、品質管理の権威であるアメリカのジョセフ・M・ジュラン博士から高い評価をいただき、ウォール・ストリート・ジャーナル紙にまで紹介されたのです。

戦後は製造現場にアメリカの管理手法が導入され、作業動作のムダを減らそうとするモーションスタディとか、ストップウォッチで作業時間の測定をするタイムスタディとかがありました。私は戦争で当時のソ連の捕虜となり、ノルマで仕事をさせられ、人間らしい生活ができませんでした。そして、日本に引き揚げるとき、アメリカ兵が舞鶴(京都府)の埠ふ頭とうに立っていたので、今度はアメリカにやられるのかと思っていましたが、復職して製造現場に入るとそういうアメリカの方式が入ってきたわけです。しかしそれだけでは、自分の仕事の経営者であるという社員稼業の意識になかなかなれない。そこで、QCサークルの中でいろいろ工夫したわけです。

人間尊重の哲学―松下"師匠"に学んだこと(3)へ続く
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年3・4月号より

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