海外投資家への仲介を主とする不動産会社「光ホーム」は、企業方針に「いい加減なものはすすめない、いい加減なことはしない、儲もうかることだけをするのではなく、真にお客様の為になり、社会に役立つ、誇りの持てる会社になること」を掲げる。
この理念は、創業者の奥田和宏社長(「松下幸之助経営塾」塾生)に「不動産業」を一生の仕事と決めさせた壮絶な体験をとおして、その心に深く刻まれた“志”でもあった。
◆震災復興の現場で確信した仕事の意義(1)からのつづき
志を立てる
復興のためにやれることはやる
「神戸の状況をニュースで知ってすぐ、岡本駅前の店に向かいましたが、めちゃめちゃになっていた長田区のあたりで車が渋滞し、先に行けなくなりました。道路の両サイドにぶわっと激しい炎が上がっていたので、その日は引き上げるしかありません」
次の日、奥田さんは抜け道を思いつき、一路単身、壊滅状態の三宮さんの みやに入った。
「最悪や……神戸も、自分も、もう終わった……そう思いました」
しかし、翌日、奥田さんの脳裏に、あの外国人オーナーたちの言葉が蘇よみがえった。
「みんな『焼け野原はチャンスや』って言うてた。戦後、復興するためにできることはありとあらゆることをやったって……。あの日、たまたま生き残った人と死んだ人の運命の狭間はざ まをすごく感じました。生きてる意味ってすごくある。『アカン』て言うとったらアカン。仕事もできるし、ここでなんかやらんと……今がやるときや!って」
阪急岡本駅前の店は鉄骨の建物だったので、なんとか残っていた。震災から三日後、連絡のとれる社員に「集まれるやつは集まって!」と伝えると、手のあいている知人なども連れて、一〇人近くが店にやってきた。
大学の新入生向けに需要がピークとなる三月に向けて、奥田さんは何カ月も前からしっかりと準備していたので、近隣の空き部屋情報はすべて頭に入っていた。
「A4のコピー用紙に『2DK ◎万円』などと居酒屋のメニューみたいに手描きで書いて、一〇〇枚くらい、事務所の壁じゅうに貼りました」
その作業のかたわらで「すぐ入れる賃貸マンションあります」というビラをつくり、一人五〇枚ほどずつスタッフに持たせて、避難所となった体育館や、電話ボックスなどに貼って回らせた。
二五坪ほどの店は、たちまち「住める部屋」を求める人々であふれ返った。
不動産は人の役に立つ“ええ仕事”
「皆さん、着のみ着のままで来られて、物件の取り合いになっていました」
できるかぎり社員にバイクで物件を確認しに行かせたが、震災直後の状況では、どうしても限界があった。
「電気、水道、ガスの復旧のめどもたっていない。電柱も倒れているし、道路も寸断されているので、当然、物件の確認も案内もできません。ですから『申し訳ありませんが、私たちも確認できていませんけれど、どれか行かれます?』と聞いて、お客様が選んだ物件のコピーと場所の地図を渡していました。そうすると、見に行かれたお客様が帰ってきて『兄ちゃん、あれ、全壊やわ!』と言われて、『ごめんなさい!急いでほかのを探します』ということもありました」
求める条件に合った物件を一瞬の差でほかの客に契約され、落胆する客も少なくなかった。
「賃貸物件の契約ができなくて、がくんと泣きくずれる人を見たのは、あのときが初めてでした」
それから一週間近く、奥田さんたちは、唐突に家を失い、雨露を凌しのげる新たな住まいを求める人たちのために、一心不乱に働き続けた。
「あの現場では、ごく一部の人から『そうやって活躍できる場所があってええな』と羨うらやましがられはしましたが、『火事場で儲けやがって!』と言う人は一人もいませんでした」
奥田さんは、当時のことを回想しながら、静かな口調で語った。
「私たちが忙しく働いていると、道行く人のほとんどが『早く立ち上がって、おまえらは偉いな』と声をかけてくれました。部屋を仲介できたお客様たちには、ほんとうに喜んでもらえました。あのとき初めて『不動産業は、人の役に立つすばらしい仕事だ』ということを実感できました。そのときの想いが、私の仕事の原点になったんです」
結局、奥田さんの勤めていた会社は、震災のダメージが原因で解散することとなった。
奥田さんは独立を決意し、芦屋にあった小さな不動産会社を手伝いながら資金を貯め、震災から十カ月が経った十一月、「ほんとうの意味で人の役に立つ不動産業の実現」という〝志〟を胸に、光ホームを設立した。
こうして、奥田さんは、小学五年生のころからの夢だった経営者の道を歩み始めた。
ウィークリーマンション事業で飛躍
芦屋を中心として、順調に賃貸事業を広げていった奥田さんは、二〇〇二年九月、集客にインターネットを活用した「ウィークリー・マンスリーマンション事業」をスタートさせた。
「たとえば、光ホームが一〇万円でマンションを借り、家具や日常必需品などをそろえて、中長期の出張で滞在するビジネスパーソンに一カ月二〇万円の家賃でお貸しします。当時の宿泊特化型ビジネスホテルの一日の宿泊料は一万円ほどでしたが、当社のサービスでは一日七〇〇〇円弱で中長期滞在できます。そして、当社は一カ月一〇万円の収益を得るというビジネスモデルでした」
事業はどんどん拡大し、翌年一月には営業区域を大阪・阪神間の二エリアに拡大。二〇〇四年三月に東京地区事業を開始し、二〇〇六年三月には渋谷に東京営業所を開設するなど、光ホームの業績は着実に伸びていった。
しかし、やがて市場の状況が変化する。競合相手である宿泊特化型ビジネスホテルが次第に供給過剰となり、値下げ競争が始まった。
そこに追い打ちをかけるように、二〇〇八年九月、リーマンショックが起こった。
「一気に景気が冷え込んで、値段を下げてもお客様が入らなくなり、会社の業績も転げ落ちるように下がりました。この事業は、言うならば『借りて貸すビジネス』ですから、稼働率が下がったら営業赤字の垂れ流しになる。『このままでは会社がつぶれる』と悩んでいたとき、思いついたのが、外国人向けに営業をかけることでした」
◆震災復興の現場で確信した仕事の意義(3)へつづく
◆『PHP松下幸之助塾』2015.5-6より