人と企業の中央志向、グローバル志向が高まるなか、人口7万人の山梨県南アルプス市で高品質のリサイクルインクカートリッジを製造するジット。「松下幸之助経営塾」塾生の石坂正人社長に、創業の経緯と地域への思い、経営理念の原点を伺った。
志を立てる
夢を持つことの大切さ
甲府盆地の南西、南アルプスの山々を間近に望むのどかな田園風景の中に、リサイクルインクカートリッジのナンバーワン企業、ジット株式会社がある。
ジットは一九九一年、OA機器の組み立て下請けの会社として、石坂正人さんによって創業された。石坂さん二十六歳のときである。
その後、OA機器の製造販売業を主としてプリンターや半導体製造装置のパーツ、その他さまざまなOAサプライ商品の企画・開発を手がけてきた。ネイルアートの自動プリント機などユニークな製品を開発したこともある。一九九九年にインクジェットプリンターの使用済みカートリッジを再利用した「リサイクルインク」を世界で初めて製造し発売。折からのエコブームに乗って大ヒット商品となった。創業以来二十四年間、黒字経営を続けている。現在では、冠婚葬祭業の株式会社ジットセレモニーと合わせ、グループ二社で年間約二六億円を売り上げている。
石坂さんが人生で大事にしていること。それは「夢」を持つことである。夢の中身は人によって違っていい。大きな夢を掲げる人もいれば、小さな夢を抱く人もいる。大きさや内容は問題ではない。夢を持つことそのものが大事。夢が人生を豊かにしてくれるし、夢を持ち続けるかぎりそれは必ず実現する、と石坂さんは信じている。
石坂さんが初めて具体的な夢を描いたのは、小学校四年生のときだった。
「ボクは将来、必ず社長になる!」
希望に燃えて決意したのではない。幼いながら家庭的に苦労をし、反骨精神に火をつけられての決心だった。
石坂さんは、一九六四年生まれ。二部屋しかない町営住宅に、両親と二歳年下の弟との四人暮らしだった。父親は建設関係の自営業だった。高度経済成長の追い風を受けて、仕事はひっきりなしに入ってくる。それを、温情を込めて濃やかな心遣いで配分するのが父親の役割だった。
その面倒見のよさに多くの人は大層恩義を感じていたが、なかには石坂家を中傷するうわさ話を流したり、家族に心ない言葉を投げかけたりする輩やからもいた。幼い石坂さんにはショッキングな出来事だった。
この悔しさをどこにぶつけたらいいのか――。そのとき心に浮かんできたのが、「だれにも何も言わせないような大きな人間になりたい」という思いだったのである。小学生の石坂さんにとって、それは「社長」だった。とはいえまだ世の中を知らないから、見ているのは父親の後ろ姿だ。
「よし、建設会社の社長になろう。そして将来、庭のある大きな家を建てよう」
十歳にして、そんな志を立てたのである。
心がしっかりすると、身体もしっかりしてくる。それまでたびたび喘息ぜん そくに苦しんでいた石坂さんだが、このときを契機に「強く生きよう」と決意し、次第に喘息は収まっていったという。
勉強の面でも変化があった。中学に入ると朝三十分早く起きて予習、夜寝る前に三十分復習という習慣をつける。三年間それを続けると、おのずと成績は伸びていった。そして将来、建築業界に進むために、甲府工業高校の建築科を志望する。ところが母親は、交通費のかさむ甲府市内の学校ではなく、自転車で通える家の近くの高校にしてほしいと懇願してきた。成績では志望校をクリアすることができても、経済的な壁があったのである。
かといって、社長になる夢をあきらめたくはない。悩んだ末、石坂さんは担任の先生のアドバイスで奨学金を申請することにする。面接の結果、見事合格し、三年間の授業料と通学にかかる交通費を無利子で借りることができた。
以来、石坂さんはこう確信するようになった。
「強く願えば、必ずかなう」と。
人の心をつかんだ「気配り」の徹底
卒業後は、建設会社に入社した。休みもほとんどない、たいへんな職場だったが、石坂さんには将来建設会社をつくるという目標があったから、まったく苦にならなかった。ここはそのための勉強の場。仕事さえ覚えられればそれでよかったのである。
ここで石坂さんは、一種の「仕事のツボ」を身につける。それは、仕事に携わる人々への「気配り」である。
建設現場には、さまざまな職種の関係者が出入りしている。それらすべての人たちに、滞とどこおりなく気持ちよく仕事をしてもらう必要がある。その任を負っているのが、自分たち建設会社の人間なのだということを石坂さんは自覚した。
まだ十代の新入社員であっても、ベテランの職人や作業者に思いどおりに動いてもらわなければならない。そのために、昼食時間や午後の休憩時間に、お弁当やお菓子、飲み物など必要なものを手際よく手配することに心を砕いた。
飲み物の好みなどは、一人ひとり異なっている。石坂さんは、それらをすべてノートに記し、朝出勤したらきょうはだれが現場に来ているかをチェックして、言われなくても好みの飲み物をすぐに出せるよう準備した。
このような行動を徹底するうちに、「おまえは気が利くな」とほめられるようになった。こうして海千山千の男たちからも認められ、この仕事に対する自信が芽生えた。
ところが、その矢先、石坂さんは大きく進路変更をすることになる。一九八〇年代、ちょうど世の中にコンピュータというものが普及し始めたころだった。
「これからは情報の時代だ」と直感した。そんな折、山梨にもコンピュータ関係の会社が進出し、人を募集することを知って転職を決意。社員・パート合わせて三〇〇人近いその会社に、最年少社員として入社する。
入社して間もなく、一〇人ほどのパートさんを束ねる製造ラインの監督者を任された。最も若いがゆえに最も給料が低かった石坂さんは、実績を上げることで会社から認められようとする。
製造ラインで実績を上げるとは、ひと言で言えば「生産性を上げる」ということである。不良率を抑え、高い品質を保ち、かつ生産数を増大させる。カギを握るのは、実際に作業にあたるパートさんたちである。石坂さんより年上の女性ばかりだ。
建設会社で身につけた「気配り」が、ここでもかたちを変えて発揮された。女性に喜ばれる行為とは何か。その一つとして大切な節目に花を贈ろうと考え、全員の誕生日を調べて、メンバーが誕生日を迎えるたびに、職場で花束を渡してお祝いしたのである。石坂チームだけのささやかな行事だったが、誕生日を祝ってもらってイヤな人はだれもいない。石坂さんは、たちまちにしてパートの女性たちの心をつかんだのである。
石坂チームの生産性は日に日にアップした。それは、パート社員さんたちがやる気を増して、仕事の質が高まったからである。多少のムリを言っても受け入れられるようになり、「石坂君が困るといけないから」ということで全員が一致協力してくれるようになった。
◆『PHP松下幸之助塾』2016.1-2より