富山の地で「幸せをかなえるデザイン注文住宅」を手がける正栄産業。住む人のライフスタイルを考えた家づくりを徹底していると評判の会社だ。
1970年生まれの森藤正浩さん(「松下幸之助経営塾」塾生)が26歳のとき創業した。一見都会的でスマートな印象を与える経営者だが、丁稚でっち同然の厳しい修業を乗り越え、たったひとりで会社を起こして成長に導いた、たいへんな努力家である。現在は飲食や介護の事業にまで手を広げる一方、将来は地域の人に「あってよかった」と言われる会社になることが夢だという。
八パーセントへの消費税増税以降、新築住宅市場が氷河期のように冷え込んでいる。そんななか受注を伸ばしているのが「SHOEIの家」。富山市に本社を置く正栄産業のコンセプト住宅だ。同社はこの八年で売上を一・七倍に拡大している。
新築不況にありながら、なぜ伸び続けることができるのか。その謎を解くカギは、社員のポケットの中にある。『経営計画書』――社長はもとより社員全員が常に携帯している手帳だ。企業理念はもちろん、営業方針、クレーム対応方針、もろもろの手当の決め方に至るまで、こと細かに記載されている。この一冊を読めば、会社のすべてが分かるのだ。「私たちが仕事をしていくうえで、価値観を共有するツールでもあります」。創業者で社長の森藤正浩さんはそう述べる。
手帳がいくら立派だからといって、経営がよくなるというものではない。社員がそれを有効活用しているからこそ、正栄産業は業績を伸ばしているのだ。しかし、同社がそんなすぐれた社員から成る会社に初めからなれたわけではない。発展の背景には、森藤さんの高い志と不屈の精神があった。
志を立てる
独立をめざし丁稚のごとく修業
正栄産業が生まれたのは一九九七年。住宅メーカーの中ではかなり後発と言えよう。にもかかわらず、森藤さんがあえて住宅業界で起業したことには理由がある。
岡山県の出身。大学進学のため、縁もゆかりもない富山県に住むことになった。やがて就職活動の時期を迎える。「卒業後は、自分で会社を立ち上げるか、マスコミや商社で働きたい」と思った。念願かない、ある大手総合商社に内定。
だが、このとき訪ねた大学OBの社員から、「地方大学の卒業生は、東大など一流大学の学閥が根強くて、思ったように仕事ができない」と言われる。森藤さんは内定を辞退し、起業をめざすことにした。
ものをつくって売ることにも興味があった。「自動車メーカーや電機メーカーはむずかしいけれど、家であれば大手ハウスメーカーよりもいいものを建てられると思ったんです」。
森藤さんは大学時代、富山市内の設計事務所でアルバイトをしていた。その経験から住宅業界の実情を知る。大手ハウスメーカーといえども、実際に家を建てているのは地元の工務店や設計事務所。下請けによって成り立っているということだ。そのうえ、大手の家はどれも通り一遍の似たようなものばかり。住む人の要望を反映していない。「自分がハウスメーカーになって、住む人に喜ばれる家を建てたい」。それが住宅業界に的を絞った理由である。
ただ、学生の自分に事業の経験はない。そこで森藤さん、アルバイトをしていた設計事務所の社長にこう掛け合った。「ぼくはいずれ独立したいのですが、雇ってもらえないでしょうか」。すると社長は、「給料はないし、うちに住み込みになるけれど、それでもよければ仕事を覚えて独立するといい」と答えてくれたのである。
修業の日々が始まった。「まさに丁稚の生活。朝はだれよりも早く起きて掃除し、昼間はあちこちの現場に飛び回り、夜は遅くまで働いて社長一家が入ったあとのお風呂に入る。土日も休みなく働きました」。
けれども、やってみたい仕事があれば、社長は何でもやらせてくれた。現場管理をしたいと言えば任せてくれたし、営業をやりたいと言えば外回りに出してくれた。おかげで、ひととおりの仕事をマスターし、独立できるだけの実力を身につけることができたのである。
つらいことも理不尽なこともあった。「でも、ふつうにサラリーマンになってそこそこの給料をもらっていたら、楽なほうへと流れ、独立できないまま一生を終えただろう」と森藤さんは言う。子どものころ、サラリーマンだった父親が酒を飲みながら「自分で会社をできたらなあ」とこぼしていたのを覚えている。守るべき家族のために、やりたいことを我慢してきた父。起業にこだわったのは、そんな父のやるせない背中を見てきたことも影響している。
◆『PHP松下幸之助塾』2015.3-4より