富山の地で「幸せをかなえるデザイン注文住宅」を手がける正栄産業。住む人のライフスタイルを考えた家づくりを徹底していると評判の会社だ。
1970年生まれの森藤正浩さん(「松下幸之助経営塾」塾生)が26歳のとき創業した。一見都会的でスマートな印象を与える経営者だが、丁稚でっち同然の厳しい修業を乗り越え、たったひとりで会社を起こして成長に導いた、たいへんな努力家である。現在は飲食や介護の事業にまで手を広げる一方、将来は地域の人に「あってよかった」と言われる会社になることが夢だという。
◆富山に新風を巻き起こした「SHOEIの家」(1)からの続き
志を立てる
正しく栄える会社にしたい
アルバイト時代を含め設計事務所で四年近くに及ぶ修業を経験したあと、二十六歳で独立。退職金代わりにもらった二〇〇万円だけが元手。敷金礼金なしのマンスリーマンションを自宅兼事務所にし、ハウスメーカーの下請けから仕事を始めた。
社名を正栄産業としたのは、自分の名前「正浩」の「正」を用いたということもあるが、家づくりにとどまらない会社にしたかったからだ。「“〇〇建設”と名乗ったら、建築だけの会社に思われますよね。でも“〇〇産業”なら、いろいろなことができる」。正しく栄えながら、さまざまな業を産み出す。そんな意味を社名に込めた。
最初の三年はがむしゃらに働いた。「人が一日八時間働くなら、自分は十五時間働けば、人が二年かかってできることを一年でやり遂げられる」と思い、営業から材料調達、現場監督、得意先回りまで何でもやった。
そんなとき事件が起こる。下請けの仕事を出してくれていたハウスメーカーが倒産し、手形が不渡りに。金額はおよそ三〇〇〇万円。「不渡りになったら手形をおカネに換えることができないとは、そのときまで知らなかったんですよ」。
運が悪かった。だからといって、材料業者も現場の職人も支払いを待ってはくれない。森藤さんは必死に金策に走りつつ、「下請けを続けていたら、永遠にこんなことを繰り返さなければならない。元請けになろう」と心に誓う。そして、会社の方向性を、「みずから家を創造する住宅メーカー」へと変えた。
下請け経験を積んだおかげで、一戸建てを建てる実力は十分にあった。ただ、知名度のない会社に家を注文する人などめったにいない。どうすれば多くの人に正栄産業の実力を知ってもらえるか。突破口となったのが、富山市内で推進され始めた下水道の整備工事である。
当時、市は浄化槽の入っている民家や団地に、三年以内に浄化槽を廃止して下水道につなぐよう指導していた。そのため、市内では下水道関連の工事が大きく増えたのである。ところが、大手ハウスメーカーは、この工事をやりたがらない。利益の大きい一戸建て住宅が売れていたので、単価の低い下水道工事をやっている余裕がなかったのだ。そこでお鉢が回ってきたのが、中小の建築会社。このチャンスを森藤さんは逃さなかった。「五〇万~六〇万円程度の下水道工事であれば、社名は知らないけれど、がんばっている会社なら見積もりだけでもお願いしようか、という心理がお客様に生まれたのです」。
森藤さんは、住宅を戸別に訪問営業するだけでなく、町内会長に働きかけて人を公民館に集めてもらい、下水道工事の説明会を開くこともやった。その際、「工事を一割引にします」と強調すると、次々と注文を取れたという。さらに顧客と一度つながりができたら、「次はキッチンのリフォームを」「今度は増築を」というように、芋づる式に仕事の依頼が舞い込むようになった。
たとえ金額が小さくても、消費者から直接注文を受けて仕事をすれば、立派な元請けだ。配管や土木工事を担う人材も中途採用できるようになった。こうして正栄産業は、下請けから脱皮を遂げていったのである。
大手がやりきれないことを実現
元請けとしての仕事は着々と増え、ついに新築一戸建ての注文を受ける。ある鉄鋼会社の社長の家だった。ただ、森藤さんはすぐには設計に取り掛からなかった。まずは社長夫妻に会い、どんな暮らしをしたいのか、ヒアリングしたのである。下請け時代のハウスメーカーに対する疑問が背景にあった。
「図面を見て、ハウスメーカーの担当者に『こうしたらもっといい住まいになる』と提案しても、『もう図面が決まっているのだからこのとおりにして』と言われたものです。お客様のために工夫できるところがいっぱいあるのに、それができない。歯がゆい思いを何度もしました」
メーカー側の事情に合わせた家づくりではなく、住む人が喜ぶ家づくりをする。当たり前のようでいて、いまだに大手がやりきれていないことを、正栄産業は一軒目の住宅から実現していった。
初めての一戸建てを完成させ、本格的に家づくりを始めてからというもの、社員の構成にも変化が見られるようになった。それまでは職人が主な社員だったが、自社で行なっていた工事を知人が経営する施工会社に依頼するようになって以来、職人のほとんどはそちらへ転籍。その一方で、企画や営業を行う社員が増えていった。まるで血液が入れ替わるように、社員が一新したのである。
それからというもの、社の業績は着実に伸びていったが、二〇〇八年、リーマンショックの影響をもろに受ける。三億円近くあった利益が一気に八〇〇〇万円まで縮小した。このとき森藤さんは、「いままでのやり方ではダメだ。組織で仕事をしていけるようにならなければ」と悟ったという。
組織で仕事をするには、社員が同じ方向を向き、経営情報を共有しなければならない。そのために重視したのが、先に触れた『経営計画書』。これをすべての社員に配布するために取った手段が「手帳」だった。
◆『PHP松下幸之助塾』2015.3-4より