国税庁によれば、日本の企業の約7割が赤字であるという。利潤追求のためにつくられている企業が利益を出せず、法人税を納めていないのは憂慮すべき状態だ。一方、岐阜市の髙井法博さん(「松下幸之助経営塾」塾生)が経営する会計事務所の顧客企業700社は、7割近くが黒字である。
なぜ、髙井法博会計事務所の顧客は黒字の率が圧倒的に高いのか。その背景には、髙井さんの事業に対する熱い志と、長年の研鑽に裏づけられた確かな経営の論理があった。
◆情熱と利他の心で切り拓いてきた人生(1)からのつづき
志を立てる
不撓不屈の精神で業務に邁進
後藤静一氏は、淡墨桜で有名な岐阜県根尾村(現本巣市)に生まれる。不遇な幼少時代を過ごし、大阪での丁稚奉公を経て、岐阜に戻る。過酷な境遇を前向きな姿勢で乗り越え、商才にもすぐれていたため、養鶏業で成功。「ゴトウのヒヨコ」の名を世界に知らしめた。
後藤氏は慈善事業にも熱心で、ちょうど独自の奨学金制度を創設したときにあたり、髙井さんらがその最初の代に選ばれたのだった。一時はあきらめた高校進学が実現することとなった。こうして翌年、髙井さんは県立岐阜商業に入学する。
「後藤社長との出会いにより、私の人生は拓かれました。まさに人生は邂逅です」(髙井さん)
奨学生寮もあった。入寮すると、三度の食事はもちろん、教材・文具から衣類、日用品まで、必要なものはすべて支給されたという。髙井さんは、お金についてはまったく心配することなく、充実した高校生活を送ることができた。
卒業後の進路も本人の自由に任されていた。「大学に行ってもいい」と言われたが、髙井さんは迷わず後藤孵卵場への入社を選択する。後藤氏の人間性に感銘を受け、何とか恩返しをしたいと思ったのだ。
入社すると、経理部に配属になった。得意の簿記を評価されてのことだろう。
早朝から深夜まで、労を惜しまず働いた。「自分が受けた大恩に報いるためには、人と同じ程度に働いていてはいけない。少なくとも人並み以上の努力と勉強をしなければ」という思いだった。
初めての給料は、半分は両親に渡し、残りの半分でビジネス書や自己啓発書を購入した。貧乏な少年時代ではあったが、両親は教育には理解があり、法博さんのために小中学生向けの新聞を取ったり、偉人伝などの本を買ってくれた。それらをむさぼり読んで過ごしていたから、本によって前向きな気持ちを育み、人生を切り拓いていくという習慣がついていたのである。
「重要なところにはアンダーラインを引き、よいと思う本は何度も読み返しました。読書ノートをつくって抜き書きもしました。とにかくお金を節約し、本代とセミナー代にあてました。そして、学んだことをできるだけ自分の行動に落とし込むようにしているうちに、次第に成果が現れ始め、会社でも認められるようになってきたのです」(髙井さん)
当時、後藤ひよこでは美濃かしわという子会社に経理部からだれを出向させるか検討されていた。入社二年目の髙井さんに白羽の矢が立った。出向先では「主任」という肩書が与えられたが、実質的な経理責任者であった。
その後、総務、企画室、社長室などの重要な仕事も任される。このとき企業の現場を身をもって体験し、多くの課題に取り組み解決していったことが、のちに経営サポートを主軸とする会計事務所を設立する髙井さんの強みとなったのである。
独学で税理士試験に合格
事業には順風のときもあれば逆風のときもある。国産鶏の品種改良で隆盛を極めた後藤ひよこも、昭和四十年代中ごろから鶏の輸入自由化で次第に経営が厳しくなってきた。子会社の美濃かしわは、安価な輸入鶏肉に押されて、さらに苦境に立たされる。経理責任者の髙井さんの肩には、一気にその重圧がのしかかってきた。
通帳の残高は瞬またたくまに減っていった。手形を落とすと、支払う給料分が残っていない。やむを得ず遅配をする。仕入れ先への支払いを先延ばしにする。社内外から不満や不審の声がわき起こった。その矢面や おもてに立たざるを得なかったのが髙井さんである。資金繰りに奔走し、やむなくリストラを敢行、労働争議の収拾にもあたった。
心身の疲労はピークに達していた。疲れているはずなのに、不安で夜眠れない。人と会うとプレッシャーから過呼吸に陥る。緊張感から鼓動が乱れて心臓が止まるのではないかという不安に襲われる。病院に行っても臓器に不具合は見つからず、「精神的なもの」として片づけられてしまう。
SOSを発信するからだに鞭むち打って出勤を続け、ついに髙井さんのからだが悲鳴を上げた。神経性の胃潰瘍で吐血し、一カ月間の入院を余儀なくされたのだった。しかし、持ち前の責任感で、外出許可が出るなり病院から会社へと通った。
その後、美濃かしわは卸おろし一本から小売りにも進出し、徐々に業績を回復していく。髙井さんにとっては自分の心身を犠牲にするほどの取り組みであったが、いくつもの修羅場を身を賭として乗り越えることで、経営の何たるかを体感することとなった。
また、療養の過程でこのような問題に対し、もっと適切に対応できる自分をつくりあげたい、と感じた髙井さんは、税理士試験というものを知り、資格を取って、多くの苦しんでいる中小企業のお役に立ちたいと思うようになった。そこで、忙しい業務の合いまをぬって、独学で試験勉強に取り組んだ。帰宅後の深夜時間帯や休日はほぼ勉強時間で埋められた。会社の行き帰りやトイレの中などのスキマ時間も利用した。毎年一科目ずつ合格を重ねて六年目、三十歳のときに合格する。
後藤社長に独立したい旨を申し出ると、初めは引き留められた。しかし、ねばり強く理解を求めていくうちに、
「分かった。私の人生が一回限りであるのと同様に、あなたの人生も一回限りだ。自分の行きたい道を行きなさい」
と最終的には許しを得られた。こうして昭和五十三(一九七八)年三月、高井会計は呱々こ この声を上げたのである。
◆情熱と利他の心で切り拓いてきた人生(3)へつづく
◆『PHP松下幸之助塾』2015.7-8より