トヨタ自動車のような大企業には、傘下に多数の企業がある。その各企業のトップは、グループ内のさまざまな仕事を経験し、経営者としての資質を磨いていく。トヨタの風土が育んだ経営者の一人として、トヨタ部品群馬共販の山口晋二社長(「松下幸之助経営塾」塾生)にみずからの人生の変転とその経営哲学を語っていただいた。

 

志を立てる

なりゆき任せだった就職活動

大企業グループに入社するともなれば、さまざまなビジネス人生が待っている。本社でキャリアを積むこともあれば、支社やグループ会社で人生を送ることもある。

そして、一社員としてキャリアをスタートさせ、勤め人としての苦労を重ねて、いつか経営責任を負う階層に到達する。本社社長だけが経営者なのではない。大企業グループの強みは大グループ各社を率いる分厚い経営者たちが揃っているところにこそある。みずから起業して経営に身を投じた創業社長とは違う、大企業グループ内部の経営者たちはどのように育っていくのであろうか。

トヨタグループ、トヨタ部品群馬共販の山口晋二社長の場合、「トヨタ部品群馬共販の社長をやってくれ」と言われるまで、自分が経営者になるなどという意識はまったくなかったという。

 

「親が商売をしていたわけでもありませんから、純粋にメーカーに勤めるサラリーマンという意識しかなかったのです。

あまり大きな声では言えませんが、実はトヨタに入社したのも、特に車が好きだったからでもなければ、トヨタでやりたいことがあったからでもありません。愛知県の三河地方で育ったので、トヨタ自動車工業(当時)でいいかなという程度の考えでした」

山口さんは率直にそう回顧する。

 

山口さんが就職活動をしていた一九八一年は、学生の売り手市場で引く手あまたな時期であった。理系の名門・東京工業大学の学生というだけで、多くの企業が内定を出す状況だったので、特に秀でたものを持っているわけでもない自分でも内定がもらえたのだ――山口さんはそう述懐する。

 

内定が決まった折、研究室の一年先輩がやってきて山口さんに尋ねた。

「どこに就職するんだ?」

「トヨタ自動車工業です」

と答えると、「自販という会社を知っているか」と聞かれた。

当時は、自動車をつくるトヨタ自動車工業(自工)と、販売するトヨタ自動車販売(自販)は別会社であった。

その先輩は自販に勤めていて、「一度、見に来ないか」と誘ってくれた。

トヨタに自工と自販があるのは知っていたものの、自分は理系なので自工だろうと勝手に思い込んでいた山口さんは、自販にも理系が活躍できるフィールドがあることを知り視野が広がった。

自工はモノづくりの会社だから、大学の研究室のような地味な印象であった。一方、自販は女性も多く、お客様相手ということもあって明るく好印象だった。

さらに、先輩の話を聞いて、「自分には、自工よりも自販のほうが合っていそうだ」と思った山口さんは、先輩の推薦で自販を受け、内定をもらう。

 

山口さんは自販に行くことに決め、自工の採用担当者に内定辞退を申し出たのだが、これがなかなか認めてもらえない。

「自販は自工の子会社みたいなものだから、自工を蹴って自販に行っても、いい仕事なんか絶対にできないぞ」

そんな脅し文句ともとれることまで言われると、次第に頭に血が上ってきた。それでも我慢して相手の話を聞いていたが、とうとう、「あなたがいるような会社には行きたくありません」と、最後に言ってしまった。

「若気の至りで、今思い返すと恥ずかしい限りです」

と、山口さんは苦笑するばかりだ。

 

こうして自販に行くことが決まったところ、正月休みにテレビを見ていると、「トヨタ、工販合併」という驚くべきニュースが流れた。このとき、山口さんは愕然としたと言う。

一九八二年四月、トヨタ自動車販売に入社したものの、三カ月後の七月にトヨタ自動車工業と合併。その後は、トヨタ自動車に勤めることになったのだから、人生は分からない。

 

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社長室のモニターに映し出される山口さんの志の数々

 

昇進レース脱落後自分を救ってくれた1冊の本

入社後の研修を終え、山口さんは希望のサービス領域の仕事に就けたこともあり、トヨタマンとして順風満帆な会社員生活を送った。

ベルギーへの三年間の駐在を含め、貴重な経験を積むこともできた。

 

転機が訪れたのは、同期のトップがそろそろ課長になるという時期であった。

ある日上司に呼ばれたとき、根が楽観的な山口さんは、「これはひょっとすると……」と期待した。昇進かと思ったのである。ところが実際は、課長への昇進の話ではなく、車体を設計する部署への異動の通達であった。

国内では、創業当初から、販売店を通してお客さまの声に耳を傾け、お客様の声を反映した自動車開発や品質向上ができていた。しかし、当時海外ではそうしたパイプがまだ細かったため、「海外でサービス経験のある中堅を開発の現場へ」ということで、山口さんに白羽の矢が立ったのである。

光栄な話であった。しかし、それは同時に社内の昇進レースからの脱落を意味する厳しい選択になることを意味した。なぜなら、昇進しないまま異動すると、異動先での昇進が遅れることはよくあることだったからである。

 

「自分の昇進レースは終わった」

山口さんは自暴自棄になってしまった。しかし、そこで自分の運命を変える本に出合った。かつて米国トヨタの社長・会長を務めた故東郷行泰さんの『アメリカに夢を売った男』(ごま書房、一九九六年刊)である。

東郷さんは中途入社でトヨタ自動車販売に入り、タイなどで紆余曲折を経験したあと、アメリカで「レクサス」旋風を巻き起こした立志伝中の人だ。

本には、いろいろといいことが書いてあった。なかでもいちばん山口さんの心に響いたのは、次のような一節であった。

「人生には、自分の努力ではどうにもできないことがある。大切なのは、それをどう受け止めるかだ。自分が将来輝くために、それは必要なステップなのだと腹の底から信じれば未来は必ず開けてくる」

そのメッセージは当時の山口さんの心にずしりと響いた。

「一九九七年に開発部署に異動後、心機一転してがんばれたのは、この言葉があったから」と山口さんは言う。

車体設計の仕事は、サービスとはまったく違う仕事であった。けれども山口さんは、「気配り三六〇度」など、これまでにサービスの現場で鍛えられた仕事のやり方で新しい上司の信頼を勝ちとろうと努力した。

その甲斐あって、一年後には課長に昇進することもできた。

ただ、当初は三年間の予定だったものが、「山口さん、もう少しいてよ」ということで、結局、十年間も開発部署に在籍することになった。

 

二〇〇七年一月にサービスの仕事に戻り、豪亜中近東地域を一年間担当した後、〇八年からは米国トヨタでの勤務となった。

単身赴任であったため、会社が保有している社宅の中でも小さい家が割り当てられた。ここで因縁めいたことに気づくことになる。

引っ越してからしばらくして、郵便受けに「Mr.Y.TOGO」と書かれたダイレクトメールが入っていたのだ。つまり、かつての恩人である東郷さんが会長リタイア後に奥様と一緒に住んだのがこの家だったのである。

山口さんは何とも言えない縁を感じ、このときばかりは感無量になった。

今にして思うと、最もお客様に近いアフターサービスの領域と最上流である開発部署の両方を経験できたことで、会社全体を見渡して考える力が養われたという。

 

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トヨタ部品群馬共販の美しく整頓されたオフィス

 

PARTS&HEARTSを継承して理想の商売を!(2)へつづく

◆『PHP松下幸之助塾』2016.3-4より

 

経営セミナー 松下幸之助経営塾

 



山口晋二(やまぐち しんじ)

1959年生まれ。東京工業大学生産機械工学科卒業後トヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)に入社。ベルギー、米国駐在を含め主にアフターサービスの領域でキャリアを重ね、2014年トヨタ部品群馬共販に転籍。’15年6月から同社代表取締役。

トヨタ部品群馬共販株式会社

[代表取締役]山口晋二
【本社】〒370-3522 高崎市菅谷町20番地302
TEL 027(372)1121(代表)
FAX 027(372)6939

設  立…1981年8月
資 本 金…1億円
従業員数…約190名
事業内容…自動車補修用部品・用品の卸売
会社URL…http://www.gunma-kyohan.co.jp/index.php