数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか。「松下幸之助経営塾」塾生の泉屋酒販における事業・理念継承事例をご紹介します。
◆「 酒文化の創造と伝承で人と地域を幸せにする(2) ~理念継承 わが社の場合 」からのつづき
ゼロからの創業、そして地域ナンバーワンへ
向島の次に、軍太さんは福岡支店へ転勤を命じられ、活動の場を九州に移す。このとき、たまたま酒屋さんの二階に部屋を借りてしばらく滞在したことがきっかけで、酒屋という商売に関心を持つ。当時、酒は生産量が制限され、かつ販売は免許制で新規参入が制限されているので、価格よりも付加価値でお客様に喜びを提供できる業種だと分かったのだ。そして、「自分でも商売をやってみたい」という気持ちに火がついた。
開業をめざし、伝手のあったお店で丁稚奉公をさせてもらった。しかし、免許を申請すると、経験も資本もないということで却下されてしまう。ふつうならここで断念するところだが、軍太さんはあきらめなかった。久留米中の酒屋をまわって休業している店を見つけ、その店の雇われ店長をやらせてもらうという形に漕こぎつけた。その後、この店での適正な経営実態が認められ、晴れて認可を受けたのであった。
さまざまな障害を乗り越えての創業だった。だが、軍太さんは言う。
「これらの困難によって、むしろ多くの教訓を与えられたと思います。問題に遭遇しても、必要以上に自分を卑下ひ げすることもないし、他人に解決を期待するものでもない。自分自身で活路を見出す以外にないことを学びました。そして、それを徹底してやり抜くからこそ、人の協力や支援が得られるということも分かりました」
一九五五(昭和三十)年十一月、泉屋はわずか四坪の店舗からスタートした。妻と手分けして、近隣の飲食店を中心に朝から晩まで御用聞きにまわった。当然、最初は注文を出してもらえない。そこで、軍太さんは自転車に箒ほうきと塵取を積んで、行く先々のお店で掃除をし、ゴミを持ち帰った。しばらく続けているうちに、お酒を三本仕入れる予定があったらそのうちの一本を泉屋に注文してもらえるようになったという。こうして少しずつ、商売を軌道に乗せていった。
小さな店とはいえ、創業にはお金がかかる。手持ちの資金では足りず、銀行に三〇万円の借り入れを申し込んだが、最初は一〇万円しか融資してもらえなかった。毎月一万円を十カ月で返済するという条件である。
ところが、軍太さんは銀行からは三〇万円借りたつもりで返済しようと心に決めた。営業時間を延長して売上の確保に努め、毎日一〇〇〇円ずつ金庫に貯ためた。銀行へは毎月三万三〇〇〇円を返し、三カ月で一〇万円の返済を終えた。
すると今度は銀行のほうから三〇万円の融資の話が持ち込まれてきた。毎月五万円の返済を六カ月で完済すると、次は一〇〇万円になった。そして一年後には、創業地の近くに二五坪の土地を購入し、店を新築移転することになったのである。
時は高度経済成長期。軍太さんの周辺で商売をしていた人たちも力をつけ、市内に新しくできた商店街に移転した。泉屋のまわりには空き店舗が目立つようになった。これに目をつけた軍太さんは、「ここを久留米一の歓楽街に変えよう」と発想した。仕事で飲食店に毎日出入りし、「いずれは独立して自分で店を持ちたい」と考えている料理長やスタッフがたくさんいることをよく知っていたからである。軍太さんは、自分が創業したときの経験をもとに出店をアドバイスし、徐々に成功者が増えだすと、やがて多くの人が相談に訪れるようになった。こうして一〇〇軒の飲食店が軒のきを連つらねる「新世界」が誕生したのである。
十数年後、時代の変化とともに新たな歓楽街の必要性を感じた軍太さんは、地上五階地下一階の大型飲食店ビル「久留米シャトービル」を建設。入居した二五店舗が繁盛するにつれてこのエリアに飲食店が集まり、現在では八〇〇店が集まる福岡県南最大の歓楽街「文化街」に発展している。同時に、泉屋酒販は業務用酒販店として地域ナンバーワンの地位を確立したのであった。
◆「 酒文化の創造と伝承で人と地域を幸せにする(4) ~理念継承 わが社の場合 」につづく