数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか――。「松下幸之助経営塾」塾生の「事業継承(承継)」事例~ナカリングループ~をご紹介します。
お客様・会社・社員が等しく喜び満足する経営を追求
ベンツ販売でトップクラス
東京駅から真東に延びる八重洲通りを歩くこと十五分。「八丁堀」の交差点を過ぎ、赤穂浪士が凱旋時に通った橋の一つといわれる「亀島橋」を渡ると、まもなく右手にメルセデス・ベンツの大きなロゴが目に入る。メルセデス・ベンツを専門販売する国内ディーラーの第一号として、一九八八(昭和六十三)年に設立された「メルセデス・ベンツ中央」の本社兼ショールームである。
メルセデス・ベンツ社の日本法人であるメルセデス・ベンツ日本では、毎年、全国の販売拠点を、販売台数のほか、前年からの伸長率、顧客満足度などをもとに評価、表彰している。二〇〇七(平成十九)年、メルセデス・ベンツ中央は、前年度の販売拠点二一二社中、優秀販売店のAクラス第一位に選ばれた。メルセデス・ベンツを販売する数ある国内ディーラーの中で“日本一”の称号を与えられたのである。
同社をはじめ、三菱自動車の正規ディーラーである「港三菱自動車販売」、新車・中古車・リースを手がける「ナカリンオート」から成るのが、創業六十六年目を迎えた「ナカリングループ」。
その代表であり、メルセデス・ベンツ中央の会長を務めるのが、今年八十八歳になる中嶌武夫氏だ。メルセデス・ベンツ中央の最も古い顧客とは、オープンした二十六年前から取引が続いている。
「ありがたいことですよ、ほんとうに」
そう言って、武夫氏は目を細める。
高級車の代名詞ともいえるベンツ。武夫氏がそのディーラーを経営するまでの道のりは不思議な縁の連続だった。
自動車店の経営が原点
郷里の兵庫県で小学校の代用教員をしていた武夫氏が、早稲田大学夜間部で学ぶために上京したのが二十歳のとき。働き口のあてはなかったが、ふとしたきっかけで、これから自転車店を始めようとしていた十歳年上の人物と知り合い、その店で働き始めた。だが、二年が過ぎたある晩、その経営者から一緒に夜逃げをするよう迫られる。しかし、他に行くあてのない武夫氏はそれを断り、一九四八(昭和二十三)年、中央区新富町にあった間口一間半ばかりの小さな店の経営を、負債もろとも引き継いだのだった。
このとき武夫氏は、郷里から十歳年下の実弟・大作氏を呼び寄せる。そして昼間は武夫氏が、夜学に通う夕方以降は、中学校から帰った大作氏が店に立った。当初は、顧客の信用を得るため、無料で自転車を掃除して回った。そして自転車の販売を始めると、当時画期的だった月賦販売システムを導入。飛躍的に売上を伸ばし、学生の経営する自転車店として業界でも有名な存在に。このころには郷里から後輩も呼び寄せていた武夫氏は、大学を卒業した一九五一(昭和二十六)年以降、自転車の修理・販売に専心することになった。
それから五年後の一九五六(昭和三十一)年、武夫氏は最初の会社組織「有限会社中島輪業」を設立する。これがグループのルーツである。世はオートバイの時代。さらに、自動車の時代もすぐそこまで来ていた。
「お客様から、『中嶌君、いつまでも自転車いじってないでオートバイをやらないか』と言われて、『はい、やります』と。それでオートバイを扱うようになると、『自動車もやれよ』と。そうやって、お客様に導いていただきながらやってきたということなんです」
一九六〇(昭和三十五)年には「中島輪正館」と社名を改め株式会社に改組。本格的に自動車の販売に乗り出した。だが、このころから武夫氏にある悩みが生じる。
◆「商法は日々新たなり 商道は不変なり(2)」へつづく
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年9・10月号より