数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか――。「松下幸之助経営塾」塾生の「事業継承(承継)」事例~小鯛雀鮨 鮨萬~をご紹介します。
宮中にも献上した「雀鮨」
小鯛雀鮨 鮨萬(以下「鮨萬」と表記)の創業は一六五三(承応二)年。徳川四代将軍・家綱が実権を握る江戸時代初期にさかのぼる。当時、大坂にあった魚(うお)の棚(現在の大阪市中央区高麗橋四丁目付近)で店を構えていた魚屋がその淵源である。その創業者・河内屋長兵衛は副業として雀鮨を販売していたが、これが後年に評判となり、一七八一(天明元)年、七代目(初代石本萬助)のとき、京都・仙洞御所へ献上することになった。
そもそも雀鮨とは、浪速江鮒(ボラの幼魚)の腹に酢飯を詰めたもの。腹の部分にできる膨らみと発酵した鮨の色合いが雀に似ていることから、その名が付けられた。しかし、時代とともに、現在の押しずしのかたちへと変わっていったという。
宮中への献上にあたっては、浪速江鮒に代わって西宮沖の小鯛を用いた。これが高く評価されたことを機に、魚屋から雀鮨専門店へと転身を遂げる。以来、小鯛を使った雀鮨「小鯛雀鮨®」(®は「登録商標」を表す)を主力商品として、商いを続けてきた。
明治期には天皇から御用命を受け、「御膳所御用御包丁人」の看板が下賜された。近年も、宮家からの御下命があるという。
「小鯛雀鮨®」は、瀬戸内海産の小鯛、滋賀の湖南地域で育った米、北海道産の真昆布、「千鳥酢」で有名な京都・村山造酢に特注の酢を使用している。
つくってから八時間ほどたつと、弾力ある鯛の身と米の絶妙な食感が心地よく、まろやかな酸味と鯛のうま味が見事に調和した逸品に仕上がる。
見た目も美しく、土産品としても重宝されてきた。鮨萬の店にはきょうも「幼少期から食べ続けた、親しみある味」と評する常連が足を運ぶ。
戦後の復興と事業継承
今ではだれもが大阪すしの老舗と認める鮨萬にも、苦難の時代があった。終戦直後のことである。
現会長・宏之氏の父・英一氏が戦地から復員すると、大阪の街は焦土と化していた。だが幸運にも、店の建物は戦禍を免れていた。この光景を目の当たりにし、英一氏は店の復興を決意。戦時下で店を守った母と従業員とともに、すしをつくり始める。しかし、当時は深刻な食糧不足。食材の入手すらむずかしい状況にあった。
それでも、知恵を絞り出しながら奮闘し、なんとか営業を継続。一九五八(昭和三十三)年には、京阪神の有名店が集う「甘辛のれん街」に、すし店では関西初となるレストラン形式での出店を果たす(それまで、押しずしが主の大阪すしは持ち帰りが基本だった)。さらに、中部地方や東京にも進出し、別会社を設立。店は見事に復興し、大きな飛躍を遂げた。
そんな矢先、英一氏は長年の労苦からか、体調を崩すようになる。そこで呼び寄せられたのが次男・宏之氏だった。「兄が早世しており、私が後継することは覚悟していました。ただ、もっと先だと思っていた」と自身が語るように、すし職人としてはまだまだ修業中の身。それでも、職人として腕を磨きながら経営を学ぶ日々を重ねる。
こうしたなか一九八四(昭和五十九)年、英一氏が急逝し、三十二歳の若き十五代として宏之氏が事業を承継する。
◆「大阪すしの老舗 400年企業をめざして(2)」へつづく
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年11・12月号より