数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか。松下幸之助経営塾塾生の「事業継承(承継)」事例~銘建~をご紹介します。

 

継承する理念 脱皮する事業

付加価値を求めて住宅事業へ

「企業の寿命は三十年」といわれることがある。この説は、もともと一九八〇年代に、あるビジネス誌が組んだ特集に端を発するらしい。ここでいう寿命とは、「企業が繁栄を謳歌おう かできる期間」という意味だったが、最近の調査でも「企業の平均年齢は三十五・六歳」というデータがあるから(帝国データバンク「企業平均年齢と長寿企業の実態調査」二〇一二年九月十二日)、かなりいい線を行っていたことになる。
 
苦労をして創業し、時代の流れに乗って会社が成長しても、それを持続させるのは容易ではない。経営環境が激変するときもあれば、目に見えないほどの小さな変化が積み重なり、気がついてみると市場が様変わりしていた、ということもある。
 
生物の進化論を象徴する言葉に、「生き残るのは、最も強いものでもなければ、最も頭のいいものでもない。最も変化に対応できる生き物である」というものがあるが、これは会社の存続にも当てはまるであろう。長く続く企業であればあるほど、その時々に応じて提供する商品やサービスを変え、業態や業容に工夫を加えてきた。
 
そして、変化についていけなかった企業は、一定の役割を果たし終えて市場から去っていった。古くはオイルショックからバブル崩壊、リーマンショックなど、企業経営にとって多難な時期があった。価値観やライフスタイルの変化、IT革命、ネット社会と、近年は変化のスピードも加速している。企業には変化への対応力がますます求められる時代になっているといえるだろう。
 
 
今回取材したのは、山口県防府市の住宅会社、株式会社銘建(めいけん)である。
一九七七(昭和五十二)年、現会長の青木雄一郎さんが設立。今年で三十七年になるので「三十年説」を乗り越え、「平均年齢」も上回ったことになる。ただし、銘建の母体となった青木産業が法人化したのは一九五一(昭和二十六)年で(当時は青木製塩)、ここから数えると六十三年になる。
 
もともとは雄一郎さんの祖父が、一九三〇(昭和五)年に瀬戸内に面する浜に入浜式塩田を取得し、な塩不足に陥ったため、塩の生産は国内で重要な事業と位置付けられていた。
 
終戦後、復興と経済成長にともなって工業用塩の需要が急速に拡大し、伝統的な塩田の製法だけでは追いつかなくなる。そこで国は、安価で量産が望める流下(りゅうか)式塩田へのシフトを促し、入浜式塩田は漸次廃止個人事業を始めたことがきっかけである。第二次世界大戦前になると、外国からの塩の輸入がストップし、日本はより深刻という方策を採ったのであった。
 
青木家では、このまま製塩業を続けるのは困難と見て、防府市と土地を交換する形で製材所のあった現在地に移転することを決意。社名を青木産業に変えて、製材業および住宅関連資材の販売を開始したのであった。一九六〇(昭和三十五)年のことである。このとき雄一郎さんはちょうど二十歳(はたち)。青雲の志を抱いて、新たな事業に取り組んだことだろう。
 
日本中が建設ラッシュに沸いた高度経済成長期である。その追い風を受けた青木産業は、順調に業績を伸ばしていった。ところが、オイルショックで需要が冷え込むと、状況は一転厳しくなる。木材や建築資材が売れないだけでなく、販売先であった大工さんたちも仕事の確保が困難になってしまった。
 
雄一郎さんも、切り出された丸い樹木を四角い角材にして売るだけでは利益は薄いと考えていた。また木材は価格変動が大きく、相場の状況によっては足が出てしまうこともあった。もっと付加価値を高くして、安定的に利益を上げる方法はないのか――そこで考え至ったのが、みずからの手で住宅を建て販売すること、すなわち住宅会社の設立であった。
 
ただ「売れない」と手をこまねいているのではなく、「売れないのなら自分たちで売ろう」という気持ちもあった。「仕事がない」とこぼしていた大工さんたちへの支援にもなる。これが銘建住宅(一九九〇〈平成二〉年に銘建に社名変更)創業の経緯である。

 

建築と販売の基礎づくり

オイルショックで大きく落ち込んだとはいえ、新設住宅着工戸数は一二〇万戸以上あり、銘建創業のころは一五〇万戸前後まで回復していた。一九六〇年代から、大手住宅メーカーがプレハブ住宅を導入し、折からのマイホームブームの波に乗って各地で販売を伸ばしていた。プレハブ住宅は、建材や部材はあらかじめ工場で加工され、現地で組み立てて完成させるので、工期も短く、また規格化と大量生産によって価格も低く抑えられている。製材業者として、長年数々の銘木(めいぼく)を取り扱ってきた雄一郎さんの目から見ると、品質的には満足のいくものではなかった。
 
当時は今ほど住宅の素材や品質に大きな関心が寄せられていたわけではない。まずはマイホームという“自分の城”を持つことが第一の目的だった時代である。そのような中で、雄一郎さんは良質な木造建築を会社の基本方針とし、「銘建」という社名にその思いを込めた。木材や資材は青木産業から仕入れる。建築のノウハウやネットワークは、これまでの販売先であった大工さんを中心に「銘工会」という協力業者の会を組織した。
 
もう一つ、雄一郎さんが着目したのが住宅ローンだった。「一億総中流」と言われた時代、一般国民でもマイホームの購入を可能にしたのが、住宅ローンである。国としても、持ち家取得を促進するねらいで住宅金融公庫を設立し、低金利で貸し付けていたが、人気が殺到。融資を受けるには抽選が必要なくらいだった。
 
大手メーカーは住宅ローンも取り扱っている。雄一郎さんは、住宅を販売するためには住宅ローンの取り扱いが不可欠であると考え、地元の金融機関に話を持ち込むが、当時の地方銀行では、まだ個人向けの融資を活発に行なっていたわけではなかった。「ならばこれもみずからの手で」ということで、地元の木材業者一五五社を束ね、損害保険会社の協力を得て住宅ローンの会社を設立してしまう。こうして住宅を建てること、売ることの土台を整えたのである。
 
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年5・6月号より
 
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