【理念継承 わが社の場合】数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか。松下幸之助経営塾塾生の「事業継承(承継)」事例~ニッコー~をご紹介します。
ナチュラルな流れで「第二創業」へ向かう品質重視の食品会社
食の安全が問われている
牛肉やコメの産地偽装、ひき肉や日本酒などの原材料偽装、製菓や食材の消費期限偽装など、食品偽装問題が毎年のようにくり返される。食中毒の発生や基準を超える農薬の検出など、人の健康を直接害するような事件・事故も、いくつかの記憶がすぐによみがえってくる。東日本大震災時の原発事故以降は、放射能汚染の問題にも人々の関心が集まっている。
食への信頼が揺らぐなかで、いったい何を信用すればいいのか、どれが安全な食べ物なのかと、戸惑う人も少なくない。とりわけ、乳幼児や育ちざかりの子どもを抱えるお母さん方の悩みは深刻だろう。
食は、人間の日々の活動エネルギーの源であるだけでなく、命そのものを支え、その命を次世代へと引き継いでいくためにも重要な要素である。食品に関わる事業者は、人々の日々の暮らしと社会の未来に対して、大きな責務を負っているといえる。
今回取材した株式会社ニッコーは、私たちの暮らしと生命に直結する食品をつくる会社である。創業以来、一貫して「産地直送」「化学調味料不使用」を基軸に、素材の味が生きた安全な食品を追求しているというが、その原点はどこにあるのか。また、四年前に創業者の山﨑貞雄さんが社長から会長になり、長男の雅史さんが社長に就任した。その事業継承はいかにしてなされ、今後、理念はどう受け継がれていくのかを伺った。
素材の味を生かしたナチュラルな食を追求
貞雄さんは、昭和十八年に現在の熊本県八代(やつしろ)市二見に生まれる。当時は葦北(あしきた)郡二見村といった。八代海(不知火海〈しらぬいかい〉)に面した小さな村で、七〇〇世帯約四〇〇〇人が暮らしていた。山、川、海の自然に恵まれ、のどかな里山の風景が広がるところだった。
「昭和三十年くらいまではよけいなものが何もなかったですね。川の水はきれいで、フナやアユ、ハヤといった魚がふつうに泳いでいましたし、ウナギやサワガニもいました。そんな生き物たちを捕(と)って食べていました。農薬や化学肥料はなく、野菜は素材そのものの味でした。よくおやつ代わりに生でかじりついたものです」
実家は豆腐屋を営んでいた。もちろん、大豆は地元の熊本産。地産地消がどこでも当然の姿だった。機械はまだなく、すべての工程を人の手で行なっていた時代だ。井戸から水をくみ上げ、大きな釜で大豆を煮る。燃料は薪まきやおがくず。貞雄さんも早朝から作業を手伝った。つくれるのは一日一〇〇丁ほどだったという。
貴重な労働力であったにもかかわらず、貞雄さんが高校を卒業すると、父親は「東京へ行って勉強してこい」と送り出してくれた。日本が高度経済成長へと突き進んでいった昭和三十年代後半。時代の先を見据えての助言だったのだろうか。
最初の六年間は、豆腐事業者の組合からの派遣という身分で公的研究機関で大豆の研究に没頭した。しかし、専門的知識がなかったので、東京理科大の夜学に通い、毎夜遅くまで勉強に励んだ。
その後、縁あって民間の食品会社に入社。ここで商品開発の方法から消費者ニーズのつかみ方まで、食品事業の基礎をしっかりと身につけた。そして十四年後、四十歳になったのを機に、株式会社ニッコーを創業したのである。
創業の動機の一つになったのが、息子の雅史さんの病気だった。生まれたときからアトピーやアレルギーに悩まされた。原因は不明だが、いろいろ調べてみると、どうやら食べ物が影響しているようだと分かってくる。保存料や着色料など、今ほど規制が厳しくなかった時代である。添加物のない、安心してわが子に食べさせられる食品を求めたいと思っても、毎日のことであるから容易ではなかった。
「それなら自分でやるしかない」――そんな思いもあった。
「安全・安心」とはいっても、ニッコーのスタンスに教条主義的なものは感じられない。貞雄さんは言う。
「家庭の食卓にのぼる料理を思い起こしてください。何か特殊なものは加えないでしょう。しょうゆや砂糖といった基本的な調味料と、あとは素材の味だけのはずです。家庭の台所を大きくしたものが当社だと思ってください」
少年時代に、自然の恵みを直じかに受け取る食生活を送ってきた。便利だから、都合がいいからというだけで、余計なものを加えて人体に負荷をかけるのではなく、ただナチュラルに、シンプルにありたいという思いだ。
ニッコーが掲げている社是は、「自分の子供に安心して食べさせられる食品を作る」。すべての親の率直な願いが、ここに込められている。
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年3・4月号より