数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか――。松下幸之助経営塾塾生の「事業継承(承継)」事例~日辰~をご紹介します。

 

「商いは生きもの」の精神で顧客ニーズの一歩先を行く

爪に火をともしてためた独立資金

清辰さんが生まれ育ったのは、鳥取県米子市に隣接する西伯郡南部町、合併前は会見町といった。実家は昭和十八(一九四三)年まで造り酒屋を営んでいたが、戦争が激しくなり廃業せざるを得なくなった。一家は生計を立てるために酒店を始める。清辰さんも高校を卒業後、長兄の命に従って家業を手伝うことになった。
 
毎日毎日、酒やビールの配達に明け暮れた。
「オレの一生、これで終わるのだろうか……」
日本が敗戦から立ち直り、みるみる経済が上向きになり始めた昭和三十年代である。意気盛んな若者を、一地方に押しとどめておくのは無理な話だった。
 
「そのころ、『東京は一千万人もいる。一円ずつ儲けても一千万になるんだから、行かせてくれ』と兄に訴えたらしい。私は覚えていないんですけどね」と清辰さん。昭和三十五(一九六〇)年五月、鞄一つで上京し、日本橋にある丸三福岡商店という、主として蕎麦店に食品を卸す会社に住み込みで働くことになる。二十三歳のときだった。
 
大学に進学した同級生たちが、ちょうど就職した時期と重なっていた。清辰さんの心の中に、「負けるものか」という気持ちが生まれる。しかし、自分には学問もなければ、東京に出てきたばかりで人脈もない。そんな状況で頼れるものといえば、まずはお金だった。
 
当時の給料が月に一万一五〇〇円。そのうち一万円を貯金した。住み込みで住居費と食費がかからなかったから可能な金額だが、それにしても無駄づかいはいっさいしない生活だっただろう。それを支えたのは「将来必ず独立する」という固い志だった。二十代といえばまだ遊びたい盛りである。ときには憂さ晴らしをしたくもなっただろう。そのたびに「なんのために田舎から出てきたのか」と原点をふり返った。
 
「いま思い返しても、そのときの自分をほめてやりたいくらいですよ」(清辰さん)
 
仕事もがんばった。とにかく早く仕事を覚えたかった。だから、人より早く起きて、人より遅くまで仕事をした。事務所や倉庫の掃除も率先して行なった。当時はまだ販売店で油をブレンドして売ることもあった時代である。ごま油の原液と白絞油をドラム缶に入れ、撹拌して商品をつくる。重労働で、夏場などだれもやり手がいなかった。人がやらない仕事にこそ、あえて手を挙げたのが清辰さんだった。こうして商売はなんたるかということを、理屈ではなく体にしみこませていったのである。
 
ちなみに、当時の丸三福岡商店では、このドラム缶の油の購入が一五缶に達したお得意先を、熱海旅行に招待するという特典をつけていた。終戦後の食うや食わずの時代を生き抜いてきた人びとにとってはとても魅力的な企画で、顧客の心をつかむことにつながったようだ。
 
学んだのはプラスの面だけではない。住み込みの従業員は二〇人ほどいたが、たとえば朝食の卵は一〇個しか用意されていなかった。必然的に“早い者勝ち”ということになる。お互いがライバルになり、ともに働く仲間として協力し合うという意識が醸成されないのである。清辰さんは「人が働く職場で、このようなやり方をしてはならない」と心に刻んだという。
 
入社当初は配達を担当していたが、ほどなく集金係になり、やがて営業担当に昇格する。がんばって仕事に取り組む姿勢が会社に認められたのだ。同僚が外回りの空き時間に映画を観ているあいだにも、一軒でも多くの取引先を訪問した。
 
こうして三年半で仕事を覚え、丸三福岡商店を退社。その後、二年ほど知人の小売りの仕事を手伝ってから、念願の独立を果たすのである。東京へ出てきてから五年半が経過していた。
 

誠意と情熱だけで困難を突破

二三〇万円の独立資金をためていた。しかし、一五坪の店を開くにも、それだけでは足りなかった。前職の社長に事情を話して足りない分を用立ててもらい、ようやく日辰梅原商店の開店に漕ぎつける。店は開いても、お得意先はもちろんない。棚はあっても並べる商品がないという有り様である。通常、酒は一〇本単位で仕入れるものだが、そこまでの余裕がないから、銘柄ごとに二~三本ずつ仕入れて並べるのが関の山だった。中古の自転車を一台購入し、来る日も来る日も顧客の開拓に奔走した。独立前に出入りしていたお得意先には決して手を出さなかった。すべて新規で、まずは顔を覚えてもらい、信用を培うことが商売の第一歩だった。
 
「若さと馬鹿さ(笑)があったから、できたのでしょうね。頭で考えていたら、手も足も出なかったと思います」と清辰さんはそのころを顧みる。
 
西落合の店は三年で手狭になり、練馬区富士見台に移転。昭和四十四(一九六九)年、株式会社日辰に改組する。しかし、そこにも収まり切らなくなって、昭和五十二(一九七七)年、同区高野台の現在地に移った。
 
このとき助けになったのも「信用」だった。じつは当時の日辰としては、ここに移転するには少々背伸びをしなければならない規模だったのである。西落合時代の取引銀行には融資を断られたが、八千代銀行の支店長が理解を示してくれた。問題は保証人である。米子の故郷の保証では通らず、やむなく取引先の漬物屋さん(蕎麦店向けに沢庵を納めていた)に頭を下げに行く。先方は、「私は今まで保証人にはなったことがないが、あなたがそこまでおっしゃるのならなりましょう」と了承してくれた。
 
商売は機を見るに敏でなければならない。清辰さんは、ここが勝負どころと見て、大胆な拡張に踏み切った。同業他社のなかには、日辰の躍進を警戒し、「過剰投資している」などとよからぬうわさを流して足を引っぱろうとするところも出る。そんな時代だった。清辰さんは「身から出た錆で借金しているわけではない。将来のために必要があって投資しているんだから、安心して仕事に励んでほしい」と従業員に訴えた。
 
その甲斐あって、その後も業績は伸長し、横浜や北関東に次々と営業所を開設。また、食品を卸すだけでなく、自社開発の加工品も販売しようと株式会社梅食を設立し、食品製造事業も開始した。
 
後年、借入金の返済を終えたとき、清辰さんはお礼を手に保証人になってもらった漬物屋さんを訪ねた。ところが、先方はお礼を受け取らないどころか、「それはおめでとうございます」と赤飯を炊いてくれたのだという。このころの商売が、単に金が儲かったか否かだけではない、目には見えない人情に裏打ちされていたことを物語るエピソードである。
 
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年7・8月号より
 
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