【理念継承 わが社の場合】数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか。松下幸之助経営塾塾生の「事業継承(承継)」事例~鷲見製材をご紹介します。

 

理念継承 わが社の場合

人も街も森の恵みによって生きていた

岐阜県の中央部に位置する郡上市(平成十六[二〇〇四]年、郡上郡の七町村が合併して誕生)は、長良川上流の豊かな森と水に恵まれ、古くから「木材の宝庫」として知られていた。
 
周囲は山に囲まれ、面積の大半を森林が占める。郡上の人々は森とともに生き、森とともに暮らしてきた。昭和の初めまでは、燃料として薪まきが使われたり、木炭が暖房や動力源になっていたりした。木こりが木を切り出し、炭焼きが炭を焼き、木地師きじしがさまざまな木工品を加工するなど、山の恵みによって人々の生活が成り立ち、一つの産業構造が成立していたのである。
 
鷲見製材は、ここ郡上の地(旧白鳥町)で昭和三(一九二八)年に創業する。当初は製材だけにとどまらず、土木業や建築請負も手がけ、地元の学校や公民館も建てたという。
 
第二次世界大戦後、昭和二十年代は、復興のための建築用材として、木材の需要が高まる。同時に、石炭・石油といった新たなエネルギーが主流になり、燃料としての木材は急速にその役割を終えていく。里山や雑木林といった天然林の用途が減り、替わって建築用材として商品価値の高いスギやヒノキの植林が全国的に盛んになった。昭和三十~四十年代になると、高度経済成長で木材需要がさらに増加。鷲見製材は、時代の流れの中で堅実に事業を進め、現在の基盤を築いたのであった。
 
しかしながら、経済成長は日本社会に大きな変化をもたらすことになる。大量消費社会を背景に物や資源が不足し、木材も国産材だけでは生産が追いつかず、輸入が自由化される。安価で生育の早い海外産木材が大量に流入することになり、日本の林業は大きな打撃を被むったのである。
 
郡上の森の姿に変化が現れるのも、このころからだ。
 
かつて、森は隅々まで手入れが行き届き、美しく並ぶ樹木の姿があちこちに見られた。苗木を植え、育ったところで山の斜面に一本一本手作業で植栽する。その後、定期的に下草刈り、つる草の除去、枝打ちなどのメンテナンスをする。そして、樹木が生長して密集してくると、間伐かんばつと呼ばれる間引き作業を行い、生育のよい木のみを残していく。
 
商品価値のある木として伐採できるまでには、五十年前後の年月が必要である。その間、人の手による木の世話と森の環境整備が欠かせない。伐採されたあとには再び苗木が植えられ、数十年後、大木に生長するまで大切に育てられる。その循環があったからこそ、郡上の森は「生きた森」として人々の暮らしとともにあり、この地域の暮らしを支える存在だったのである。
 
しかし、産業構造が変化し、若い人たちが新しいライフスタイルを求めて都会へ出てしまった。郡上の主要産業である林業に携わる人口は、年々減少する。そして、手入れされなくなった森は、次第に荒廃が目立つようになってきた。
 
昭和五十八(一九八三)年、鷲見隆夫さんが三十四歳で鷲見製材の三代目社長に就任したとき、郡上の森はまさにこのような危機に直面していたのであった。
 

郡上の森を守るために何ができるか

隆夫さんは、大学で建築を学んだあと、名古屋の建設コンサルタント会社で都市計画の仕事に携わっていた。しかし、都市が発展・拡大すればするほど、地方は衰退していく現実が目に入ってくる。ふるさと郡上も例外ではない。自分を育ててくれた故郷が活気を失っていく姿を、平然と見ていることはできなかった。
 
「家業を継ぐ」というのが常識的だった時代、隆夫さんも先代社長の父に請われて白鳥町に戻るが、その条件は「好きなことをさせてもらう」だった。コンサルタント会社勤務の経験から、街づくりというスケールでものごとを考えないと、地方に活力は取り戻せないと思った。製材業は確かに木材工業の基礎部分であり、木材加工の大事な工程を担っているが、これまでやってきた製材だけで未来の展望を明るく描ける状況ではなかった。
 
だれかが何かをしてくれるのを待っていても始まらない。自分でやるしかないと考えた隆夫さんは町議会議員になり、街づくりに取り組むことになる。「今、地域に何が必要か」。それだけを問い続け、三期十二年のあいだ、走り続けた。
 
この地域の歴史は木材を抜きにしては語れない。郡上の地域活性化は、面積の大部分を占める森林の活性化なくしてはありえないのではないか。そう考えた隆夫さんは、地域をあげて地元の木を生かす事業を推進しようとした。
 
鷲見製材としてまず取り組んだことが、社寺向けの製材である。それまでは、近隣の製材所と同様、住宅などに使われる一般建築用材を扱っているだけだった。しかし、市場が安価な輸入木材に押されるなか、いつまでも従来の販路だけに頼ってはいられない。木曾檜、東濃檜、長良杉といったこの地域の良木を生かすためにも、社寺向けの製材はたいへん適しているのではないかと考えられた。実際、社寺建築を手がける建設会社との取引が始まると、鷲見製材は順調に業績を伸ばし、やがて一般建築用材から手を引いて社寺向けに特化するまでになる。
 
隆夫さんのもう一つの活動は、地域の事業者で協力して地元の木を使い、森の循環を支えようというものだった。平成八(一九九六)年、鷲見製材を中心に、地元の建設業者一四社が集まって、長良川ウッド協同組合を設立。原木の仕入れから製材・プレカット加工までを一括生産することで、郡上の良質な木材をエンドユーザーに届ける流通の仕組みの確立をめざした。
 
鷲見製材一社だけでは限界がある。それよりも志を同じくする地域の事業者が集まって地元を盛り立てていってこそ、町は活性化するはずだという思いからだった。
そのベースにあったのは、隆夫さんがふるさと白鳥町を思って構想していた「白鳥マザーランドプラン」である。
 
若い人が地元を離れ、地方は過疎化する一方で、都会に住む人たちにも自分たちの暮らしを見直す風潮が広がり始める。経済成長がピークを越え、懸命に働いても給料が思うように上がっていかない。それどころか、不況によるリストラや倒産の憂き目に遭うこともめずらしくない。
 
都市で働く人たちの心の中に、「何のために働くのか」「ほんとうの幸せとは何か」といった疑問が湧き上がっていた。物と情報にあふれた都市生活を離れ、あえて田舎に移り住むという人が出始め、メディアで取り上げられることも増えてきた。
 
「人はどうして田舎暮らしに魅力を感じるのだろうか」
という問いに対して、隆夫さんが導き出した答えはこうだ。
「田舎には、都会にはないものがあるからだ」
 
田舎にあって都会にはないものとは、たとえばきれいな水や空気であり、四季が織りなす豊かな自然の風景であり、身近で収穫される新鮮な食材であり、人と人が絆で結ばれた温かい社会である。つまり、人間が人間らしく生きていくための条件がそろっているのだ。だから、都市生活に疲れた人たちは「田舎に帰りたい」と思うのではないか。隆夫さんは、そう考えた。
 
白鳥町には、都会の人の心を癒し、豊かな自然に包まれた温か味のある暮らしがある。白鳥町を「日本のふるさと」にしたい――それが「白鳥マザーランドプラン」の根底にある思いだ。
 
具体的には、白鳥町の資源を生かした「農(特産品の加工販売)」「林(テーマパークやイベント)」「観光(宿泊施設)」という三つの柱を育て、都市生活者の心をつかもうという構想だった。隆夫さんの郡上への思いは、ここに凝縮されていた。

 

ひだまりのような温もりを住まいに(2)へ続く

◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年5・6月号より

 

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