初期のPHP研究所で、もっとも長く顧問を務めた人物に、三辺長治(みなべ・ちょうじ、1886~1958)という人がいました。富山県出身で、金沢の第四高等学校に進学し、当時同校の教師をしていた哲学者の西田幾多郎に教わっています。

 東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入り、山梨、徳島、岡山、宮城、愛知と、5つの県知事を歴任しました(※1)。昭和9(1934)年から2年間、文部次官に抜擢され、西田の力も借りて軍国主義者の押さえ込みを図りましたが、失敗。東京市助役(副市長)に左遷され、官僚生活の最後に大阪府知事を務めて、戦時中に退官しています。

 

 PHP研究所創設3周年の際に、三辺氏が『PHP』に書いた「三年前の或る夕べ」(※2)によると、松下幸之助とは戦前から交流があったようです。退官後、青森県七和村(現・五所川原市)に疎開していた三辺氏のところへ、終戦の翌年に幸之助から面会を求める手紙が届きました。昭和21(1946)年10月12日の夕方、東京で再会した際に、幸之助は「一つの研究所をつくり、その道の学者と実際家を加えて研究と運動をやってゆく」と述べ、「(日本復興のための)具体的な方策を一部の繁栄譜というようなものにまとめて、ジャズ入りで大宣伝をし、大多数の国民の賛同を得る」と言ったということです。

 

 三辺氏は、同年11月3日のPHP研究所開所式に参列し、以後、研究所は毎月顧問料を払って指導を仰ぎました。一例をあげますと、昭和23(1948)年2月23日、第1回PHP定例研究講座で発表された「PHPのことば その一」は、当初「かぎりない繁栄と平和と幸福とを、神は─自然と眞理とを通じて、われわれ人間に與(あた)えておられます」という言葉で始まっていました。三辺氏は、「神」という表現に関して、「キリスト教信者にはもってこいですけれど......万人向きにどうでしょうか」と述べ、この「神」は「創造者という意味でなく『宇宙の秩序』という様な意味じゃないかとも思われます」と指摘しています(※3)。その後「PHPのことば その一」の冒頭は訂正され、「かぎりない繁栄と平和と幸福とを、真理は、われわれ人間に与えています」となりました(※4)。

 昭和25(1950)年7月、PHP研究所が活動を主に『PHP』発行のみに留めたのちも顧問を続け、昭和29(1954)年8月25日、顧問料の支払いは打ち切りとなっています(所長発信簿)。研究所が毎月顧問料を払っていた人物は、他にも数名いましたが、ほとんどが2、3年間であり、研究所の創設から8年近くにわたって顧問を務めたのは三辺氏だけでした。

 


1)当時の県知事は、今日のように県民による投票ではなく、内務省の指名で決められました。内務省は、警察や法律をつかさどる官庁で、終戦後にGHQによって解体されています。
2)『PHP』第31号(昭和24〔1949〕年11月発行)68~69頁。「PHP三周年記念特集 あの頃のPHP」における記事で、三辺氏は「東京都・会員・元大阪府知事」と紹介されています。
3)『PHP新聞』第12号(昭和23〔1948〕年4月15日発行)4面、三辺長治「『素直な心』を普及しよう」。
4)『PHP』第60号(昭和27年〔1952〕10月発行)13頁。同12頁に、これまで発表された「PHPのことば」について、「いろいろと頂きました御批判なり御意見を参考に再度検討致しました結果、若干の修正を行いました」と記されています。