「PHP友の会」の名は、昭和21(1946)年11月22日に作成された「PHP運動要綱案」という資料で最初に見ることができます。そして翌昭和22(1947)年3月8日、大阪における婦人友の会結成大会が、大阪市の毎日会館で開催されました。約1,000名が参加し、PHP研究所にとって初の大きなイベントといえるものでした。
この大会は『大阪府下婦人友の会結成大会記録』と題するファイルによって内容を詳細に知ることができます。プログラムを見ますと、午後1時からの開催で、最初に軽音楽や歌謡曲が披露され、序盤はコンサートのような内容でした。次に、松下幸之助と、進駐軍から招いたアメリカ人による講話があり、最後に、進駐軍から供給されたアメリカ映画が上映されました。閉会は午後4時、かかった費用は総額14,100円(現在の価値で約65万円)と記録されています。
歌謡曲の演奏(『大阪府下婦人友の会結成大会記録』より)
幸之助の講話は「PHP運動に就いて」というテーマで、「知識や学問」にとらわれず、「心眼によってものを観る」ことが大切だと述べています。また、敗戦による惨状を踏まえ、「万物の霊長と自ら許すところの人間が、なぜこんなになるのか、不思議ではございませんか」と訴えました。
残されたファイルには、「婦人大会反省録」という資料もはさみこまれており、当日の参加者には、「家庭婦人」が少なく、職業を持った女性が大半だったことが指摘されています。この大会の成功は、PHP研究所にとって大きな自信となり、その後、各地域で開催された友の会結成大会の雛形となりました。