昭和36(1961)年11月27日、松下電器社員有志が中心となって、松下幸之助の67歳の誕生日祝賀会が新大阪ホテルで開催されました。PHP研究所からは、錦所員が代表として出席しています(業務日誌)。

 

 これまでの誕生日について、幸之助は「祝うことを、自分も特にやったこともなければ、人からして頂いたこともなく、まして会合などもなかった」と書いています(松下会長日誌)。幸之助が不在のまま、むめの夫人が自宅で「祝をやっておきましたという場合がほとんど」でした。

 

 当日の参加者は、松下電器の社員を中心に、約400名(松下会長日誌)であり、社外からの出席者もあったようで、「お互い平素御無沙汰している人々」も会場に駆けつけました(松下会長日誌)。盛大な祝賀会を開いてもらい、幸之助は「生涯かつてなかったこと」とか「まことに感激深いものがあった」と感想を残しています(※1)。

 

 参加者に好評だったこともあり、翌年も祝賀会が開かれています。昭和37(1962)年11月27日、14時から新大阪ホテルで約500人が出席しました(松下会長日誌)。

 

 会に先立ち、幸之助は1時間ほど講話をしています(※2)。四天王寺の極楽門(西大門)を寄付したことや、「人事をつくして天寿を全うさせる」ことの大切さなどに触れつつ、「今は松下電器の会長として産業人としての任務と、人間研究の二つの仕事がある」と説きました(研究日誌)。また松下電器は一つの「転機に立っている」とし、「この転機を生かしてより良き道にするには」、社員がみな「己れをむなしくして素直に物を見る」ことが必要だとしています。上に立つ人ほど「判断上手」にならなければならず、「自己観照こそ、われわれ経済人をして、何をなすべきかと教えるもの」と言いました。

 

 祝賀会が終わると、西宮市の私邸・光雲荘へ帰り、むめの夫人と「2人の宴会」を開き、「さし向いて誕生を語りあった」としていて、夫人と「無事であることを大変に喜んでいる」と、この日の『松下会長日誌』は結ばれています。

 


1)《速記録》№295に、この時の幸之助の講話が記録されています(『松下幸之助発言集』第31巻所収)。

2)この時の幸之助の講話について、翌28日に錦所員が「研究打ち合わせ」で、ほかの所員に説明しています。引用文は『研究日誌Ⅲ 37.10-38.12』46頁から採録しました。より詳しくは《速記録》№378(『松下幸之助発言集』第31巻所収)参照。