昭和36(1961)年8月に京都市南禅寺横の真々庵においてPHP活動が再開された当初、松下幸之助は頻繁に来庵し、月に10回前後の研究活動が行われました。その後、幸之助の体調はすぐれず、昭和37(1962)年7月から医者の勧めもあって休養を優先しています。グラフは、1カ月のうち幸之助が参加した研究会の日数を示しており、休養を勧められてからしばらくは減少傾向にありました。

 

 昭和39(1964)年に入り、再び日数が増加に転じた矢先、同年5月は活動を再開して以降初めて、月に一度も行われませんでした。これは、松下電器と取引のある販売会社・代理店の経営状況が悪化していたためであり、これを受けて同年7月に熱海会談が開催されています。8月に幸之助は、松下電器の営業本部長代行に就任して状況の改善に努め、同年9~10月は2カ月にわたって研究会が全く行われませんでした。同年12月にようやく従来通り行われるようになり、以後しばらくは月に5回前後の日数が確保されています。

 


1)『PHP研究所所誌』より作成。開所から昭和37(1962)年7月まで、研究員だけの研究会も記録されていますが、ここでは計上していません。