活動を主に『PHP』誌発行のみにとどめた昭和25(1950)年8月以降、『PHP』誌の編集は、ほとんど錦茂男所員によって行なわれてきました。真々庵において研究活動を再開してからは、徐々に編集面でも改善が図られています。

 

 昭和38(1963)年9月1日に「株式会社PHP研究所」となった際、『PHP』誌の収支状況を改善するため、昭和39(1964)年1月発行の第188号より購読料を1冊30円から50円に値上げすることが決定されました。それまで統一性がなかった総ページ数がこの月以降は安定的になっており(上グラフ)、編集に際して費用管理をするようになった様子がうかがえます。

 

 編集長は昭和25(1950)年9月発行の第41号から錦茂男所員が長く務めていましたが、昭和40(1965)年2月発行の第201号より岩井虔所員が務め、同年11月発行の第210号から大辺豊所員が担当しました。同年6月発行の第205号に「カラーページ」(※1)と称して、一部のページで色の違う紙を挟み込む方法が始まり、昭和41(1966)年1月発行の第212号から、「今月より目次は紙をかえて新たにレイアウトをした」(※2)と記録があります。

 

 目次の前後にフルカラーの写真を掲載する手法は、昭和41(1966)年2月発行の第213号で初めて試みられました。昭和49(1974)年1月発行の第308号から写真のページは目次の前で固定されるようになり、内容に変遷がありつつも、この仕様は基本的に今日まで継続しています。

 

 また昭和41(1966)年3月発行の第214号から、巻末の奥付の後ろに「普及部だより」が設けられました(昭和43〔1968〕年12月発行の第247号まで)。この号で、現在も使用しているロゴマークが表紙に登場します。記録には「表紙、PHPの題字を、下をぬかずに刷ったゝめ少々見苦しい」(※3)とだけ記載されていて、当時はあまり大きな出来事ととらえられていなかったようです。

 

PHPロゴ214号.png

昭和41(1966)年3月発行の第214号で初めて使われた「PHP」のロゴマーク  

 


1)『PHP研究所誌』157頁。
2)同上184頁。
3)同上189頁。