真言宗系の新宗教である辯天宗は、松下幸之助が交流を持った宗教団体でした。昭和39(1964)年4月29日に真々庵で行われた『LIFE』誌のインタビューで辯天宗について質問され、幸之助は「PHPの研究の立場から言うとね、ああいう、つまり非常にいい宗教が、やっぱり盛んになってもらわないかんと。あの宗教に限らずね。どの宗教でも」(※1)と言っています。宗祖である「辯天様」こと大森智辯氏(1909~1967)とは、昭和26(1951)年ごろ初めて会ったとのことです(※2)。

 

 真々庵の開所以降では、昭和36(1961)年8月24日に大森氏は来庵し、「お土産の品々頂く」(業務日誌)という記録があります。同年11月2日、幸之助は「鯉を頂いた」(松下会長日誌)と記しました。大阪府茨木市にある辯天宗大阪本部で本殿が落成し、昭和39(1964)年4月16日から20日まで落慶大祭が催された際、幸之助は18日に講演をしています(速記録№523)。

 

 大森氏は、信者とみられる実業家を幸之助と引き合わせたこともありました。昭和37(1962)年6月12日、「辯天様が午后、東京の二口という人を同行して、真々庵にみえた。外資導入の問題について相談したいとの用件であったが、約1時間ばかり懇談した」(松下会長日誌)と書いています。二口氏とは同月23日に東京でも会い、7月3日には「辯天様が二口氏をつれて真々庵を訪問された。用件は外国から借入金をすることについての相談であった」(松下会長日誌)と記しました。

辯天さん

辯天宗本部発行『智辯尊女』178頁より

 

 また、幸之助は辯天宗に二つの茶室を寄贈しました。昭和40(1965)年11月4日、辯天宗大阪本部に茶室「智松庵」、昭和51(1976)年5月13日、奈良県五條市にある辯天宗大和本部に「和幸庵」が奉納されました。
 昭和40(1965)年12月29日がおそらく最後の面会であり、昭和42(1967)年2月に大森氏は逝去しています。

 

 松下政経塾の開塾のころ、辯天宗側からのたっての願いもあって、幸之助は昭和55(1980)年4月23日、大阪本部本殿に参拝しています。辯天宗の機関誌である『ききょう』には、信者たちから盛大に迎えられた様子が記載されました(※3)。
 辯天宗を高く評価した幸之助でしたが、正式に信者となることはありませんでした。

 


 

1)《速記録》№530、145頁。
2)辯天宗発行『ききょう』昭和46年第2号(1971年4月20日発行)22頁。幸之助は「もう二十年近くも昔……たまたま機会があって、初めて御宗祖様にお目にかかった」とされています。
3)辯天宗発行『ききょう』昭和55年第3号(1980年7月25日発行)巻頭口絵より。