月刊誌『PHP』を100万部に向けて普及する活動は、「センチュリー作戦」と呼ばれました。これは"明治元(1868)年10月23日、明治天皇即位による改元が行われてから満100年になる年"という意味で、昭和43(1968)年が「明治改元満百年」とか「明治百年」と呼ばれていたことにちなんでおり、「明治百年に100万部を目指して活動しよう」が合言葉になりました(※1)。
同年5月から「第1回センチュリー作戦」が展開されています。6月28日の会議までに、各地方の分室が目標とした部数まで売り伸ばすことになりました。作戦開始に際し、5月2日にPHP研究所京都本部普及部の所員は、京都の石清水八幡宮に朝6時から参拝し、100万部達成を祈願しています(上と下写真)。
石清水八幡宮の色紙は各地方の分室に送られました
6月までで四国、静岡では、計画を大幅に越える成果を上げています。これを受けて7月から「第2回センチュリー作戦」が展開されました。しかし、それまで好調だった四国、静岡は急に低迷し、大阪、東京、名古屋のみが計画の80パーセントを越えるという展開になりました。当時は大企業などによる300部以上の大口が受注できるかどうかが計画達成のカギであり、それが不安定要素にもなっていたと言えます。夏には市場が動きにくくなる「夏枯れ」も、拡売が減速した背景にありました。
このため、第2回センチュリー作戦は頓挫する形で、8月30日に会議が開かれました。大口受注を期待できる大企業はひと通り訪問してしまったこと、書店普及が「一つの山に達した」(※2)など、行きづまりの要因も見えてきました。10月には「いよいよ苦しい普及活動を迎える」(※3)という記述も見られます。
これが11月になると、一転して『PHP』の大口受注が増え、100万部が視野に入ってきました。それまで「その他管理費」に含まれていた「宣伝費」は10月から項目が分けられ、11月からそれまでの2倍以上が計上されています。この結果、『PHP』が社会的にさらに認知されるようになり、年末に向けて各企業は出費がしやすかったことも重なって部数が伸びました。
これらの困難を乗り越え、月刊誌『PHP』は予定より1年早く、昭和44(1969)年1月号で100万部に達したのでした。
1)「明治改元満百年」は「明治100年」ではなく「明治101年」に相当します。「満百年」なので、101年目に入ったことを意味していました。「明治百年」という言い方は、当時の世間一般でも混同する人が多かったようです。
2)昭和43年『PHP研究所所誌』9月8頁。
3)同10月8頁。