大徳寺の管長代務などを務めた立花大亀氏は、松下幸之助と長く交流を保った臨済宗の僧侶でした。初めて会ったのは、昭和27(1952)年9月「京都のある有名な骨董屋さんの御茶席」であり(※1)、PHP研究所には、昭和37(1962)年1月9日、真々庵を訪れたのが最初です(※2)。その後、年に数回ほど来所の記録があり、昭和45(1970)年2月13日から立花氏による全8回の出張講義が始まりました。

 場所は真々庵、内容は『般若心経』の解説であり、幸之助の他4名の研究員が出席しています。テキストとして弘法大師空海の『般若心経秘鍵』が使われ、参考書として白隠禅師の『毒語心経』が配られました。どのようないきさつで出張講義をすることになったのか特に記録はありませんが、幸之助は英語版『PHP』誌を創刊するにあたって仏教を勉強したいと言っています(※3)。

 講義は毎回『般若心経』全文の書き下し文を読み上げることから始まっています。全8回の講義の内容を要約すると以下のとおりです。

立花大亀『般若心経』講義の内容

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 第2回以降は、『般若心経』のキーワードを解説していくインド哲学的な内容でした。同時に通俗的な仏教説話を随所に盛り込んで聴講者が飽きないように工夫しており、各回の最後に幸之助や所員と質疑応答をしています。講義のみが行なわれていて、座禅をした様子はありません。

 第3回の講義が終わって幸之助が退席すると、立花氏は所員に対して幸之助の心に「灯をつけたい」と述べています(※4)。第4回の講義の際、立花氏は幸之助の理念に共鳴しつつも「哲学的論拠」がないので、理念に「解明」をつけたいと述べました(※5)。第5回では、幸之助は講義を踏まえて研究所で討議したい旨を述べ(※6)、「仏教の現世利益というものをね、形の上に表わしていくという時期が来る」(※7)、それが「PHP」であると説いています。立花氏は「大きな収穫が必ずあるということを信じています」と応じました(※8)。


1)國頭義正編集兼発行『人生問答 立花大亀対談集』(経済春秋社、1956年)14頁。
2)『業務日誌№1自昭和36年4月30日至昭和37年3月12日』146頁。
3)速記録《第一回般若心経講義》132頁。この出張講義は、すべての録音が現存しています。
4)速記録《第三回般若心経講義》103頁。
5)速記録《第四回般若心経講義》124頁。
6)速記録《第五回般若心経講義》96頁。
7)同上101頁。
8)同上112頁。