全盲の鍼灸師であった御井敬三氏(写真)が最初にPHP研究所を訪れたのは、昭和43(1968)年7月3日です。松下幸之助によれば、元々は当時松下電器副社長だった高橋荒太郎氏を担当していて、紹介を受けて思想家としての見識の高さに感銘を受けたと説明しています(※1)。この日は所員の前で講話を行ないました。

 御井氏は大正6(1917)年9月生まれ、和歌山県有田郡湯浅町出身。10歳のころに失明して鍼灸師の道を歩み、大阪市で東洋医学研究所を主宰していました。大本教の熱心な信者であり、宅地開発が進む奈良県明日香村の景観を保存するよう社会に訴える活動を行なっていました。昭和43(1968)年7月15日、PHP研究所参与に就任しています。

 その後、月に数回の頻度で来所しており、主に女子所員を対象に講話を行なうほか、同年9月1日発行の月刊誌『PHP』第244号から「みどりのランプ」を連載しています。翌2日、研究所内で、「御井先生を囲む研究会」が発足し(※2)、同月21日には、『大和飛鳥路』という映画を鑑賞する会が研究所内で催されました(※3)。

 飛鳥についてさらに造詣を深めるべく、同年10月27日、40名の所員が明日香村を訪ねました。元朝日新聞記者で奈良の郷土史家であった松本楢重氏がガイドを務めており、訪問の様子を収めたアルバム2冊が現存しています(写真)。

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明日香村を訪れた所員

 幸之助の勧めもあって、御井氏は昭和45(1970)年1月、佐藤栄作総理大臣あてに明日香村の景観保存を訴える内容のカセットテープを作成しました。それをPHP研究所の所員がもう一度朗読して録音し直し(※4)、幸之助が知人に託して総理に聴いてもらいました。総理の心を動かした御井氏は後日、総理との面会にこぎつけています。同年4月5日には御井氏を中心に明日香村で「飛鳥村塾」が開塾し(※5)、塾を足掛かりに「飛鳥を守る会」が結成され、作家の井上靖、大佛次郎、川端康成、司馬遼太郎、松本清張、評論家の小林秀雄、福田恒存、俳人の山口誓子、写真家の入江泰吉など各氏が参加しました。

 昭和46(1971)年4月に財団法人飛鳥保存財団(現公益財団法人古都飛鳥保存財団)が設立され、幸之助が初代理事長に就任しました。御井氏はそれを見届けるかのように同年8月23日、心臓発作で死去、享年53。翌昭和47(1972)年3月に高松塚古墳の壁画が発見され、明日香村の重要性が社会により広く認識されました。


1)昭和43年『PHP研究所所誌』7月1、11、13、21頁。録音№「御井1」(速記録未作成)。
2)同上『PHP研究所所誌』9月2、13頁。
3)同上同頁。
4)幸之助は、このいきさつについて「その人(=御井氏)が吹き込んだことをね、うちのね、PHPのね、声のええ連中がおますのや。そういうこと好きな。それに吹き替えさせたんです。そして佐藤さんに聞かしたんです」と説明しています(速記録№1131)。
5)『毎日新聞』昭和45年3月11日付。