昭和45(1970)年3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されました。松下グループは松下館を出展しており、PHP研究所も協力しています(※1)。


 松下館に展示された主なものは、5,000年後に向けたタイムカプセルとその収納品でした。万博に先立って「タイム・カプセルEXPO'70委員会」が組織され、松下幸之助は顧問に就任しています。万博への出展は松下グループ単独でしたが、委員会は毎日新聞との共同事業でした。5,000年間耐えられるタイムカプセルを考える技術委員会と、収納品の選定委員会が設けられ、後者には会田雄次、坂西志保、両氏など当時の月刊誌『PHP』に執筆していた知識人も参加しています。


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タイムカプセルに収められた月刊誌『PHP』第260


 昭和44(1969)年4月6日、大阪市のフェスティバルホールにて「万博と繁栄の話と大茶会」が開催され、PHP研究所は「後援」で協力しています(研究所所誌)。幸之助が「このごろとくに思う事」と題して講演したほか(速記録№1066)、中馬馨・大阪市長、鈴木剛・ホテルプラザ社長も登壇しました。


 タイムカプセルには、当時の文化や文明を象徴する2,098点を納めることになり、昭和45(1970)年1月発行の月刊誌『PHP』第260号(上写真)と『道をひらく』、「人間宣言」も選ばれています。当時の『PHP』誌は143万部であり、日本一の発行部数でした。幸之助による5,000年後に向けたメッセージは、同年10月12日「音響研究所」で、純金のレコードに録音されています(速記録№1223、松下幸之助発言集10所収)。


 万博が閉幕して後、2つのタイムカプセルは大阪城前で1971(昭和46)年1月20日に1号機が、同月28日に2号機が埋設されました。万博開幕1周年の同年3月15日にまず大阪城前で完工式が開かれ、続いて大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)にて、タイムカプセルを文部省に寄贈するセレモニーが行なわれています(※2)。幸之助は関係者の協力に感謝しながら、5,000年後まで松下電器の名前が残ることは、宣伝費として「だいぶ安うできた」と述べ(※3)、なごやかな雰囲気で締めくくりました。



1)資料として松下電器による大阪万博の記録映画『伝統と開発 松下館』(整理№ODA570003)があり、書籍ではタイム・カプセルEXPO'70記録小委員会編『TIME CAPSULE EXPO'70記録書』(松下電器産業発行、1975年)があります。
2)この日以降、タイムカプセルの管理は国が行なうことになりました。地表に近い2号機は各世紀の初め、100年ごとに開封して中の様子を確かめ、1号機は5,000年後まで開封しないことになっています。
3)松下電器制作の動画『松下幸之助会長とともに(第9集)』(整理№ODA570002)所収。実際にかかった直接経費は約2億円でした。前掲『TIME CAPSULE EXPO'70記録書』4頁。