真々庵での推敲作業を終え、松下幸之助が『人間を考える』を脱稿したのは、昭和46(1971)年12月8日でした。その後は約2年間、体調を崩したままになります。

 昭和47(1972)年4月には小康状態だったようであり、「新しい人間観の提唱」をまとめています。この文章はそれまで昭和26(1951)年9月に発表した「人間宣言」と同じ名で呼んでおり、本文を含めた書籍全体も「人間宣言」と呼称していました。所員が第一に昭和天皇の「人間宣言」を連想させること、第二に「人間宣言」と題する文章は他にもいくつかあることを理由に、巻頭の文章は「新しい人間観の提唱ということであれば分かりやすい」と進言しています(※1)。最終的にこの意見が採用され、書名も改めて検討されました。『人間を考える』は8月1日に発刊となり、初版印刷部数は3万部と記録されています(※2)。


 発刊日の8月1日に幸之助はPHP研究所に来所し、「内容については批判もいろいろあると思いますが、そういう批判なりいろいろな意見をね、聞いてさらにこれを充実さしてゆきたい」(※3)と述べました。



1)録音№4727。昭和47(1972)年4月(日は不明)。この所員は「新しい人間観ということで、自信持ってよろしいんじゃないかと思います」と述べており、幸之助の人間観に「新しい」と形容詞がついたのは脱稿後のことで、体調不良の時だったようです。

2)昭和47(1972)年『PHP研究所所誌』8月3、18頁。

3)速記録№4708、昭和47(1972)年8月1日、「『人間を考える』発刊にあたって」。