イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー氏(Arnold Joseph Toynbee)(※1)は、昭和42(1967)年11月27日、夫婦で真々庵に来庵しました(写真)。松下幸之助と対談し、その内容は翌昭和43(1968)年3月発行の『PHP』第238号に掲載されています(松下幸之助発言集13所収)。
古今東西の歴史を文明論の観点から論じた大著『歴史の研究』全12巻(日本語版は全25巻)によって、トインビー氏は世界的な名声を博しました。日本の文明にも早くから多大な関心を寄せていて、3回来日しています。ヨーロッパ文明は没落を避けるため、日本から多くを学ばなければいけないと主張し、特に神道の自然観に注目していました(※2)。
昭和45(1970)年に英語版『PHP』が創刊される際、トインビー氏は発行準備号の「見本版」(Announcement Issue)に"Mankind's Choice(人類の選択)"を寄稿しました。日本語版『PHP』にも、昭和47(1972)年10月発行の第293号に「あすへの課題」と題する論考が見られます。
国際PHP研究所はトインビー氏の書籍を企画し、昭和48(1973)年2月27日に所員がイギリスの自宅を訪ねて取材を行ないました。取材は原稿依頼も兼ねていて、トインビー氏は昭和49(1974)年5月発行の日本語版『PHP』第312号から「世界の窓」を7回連載しています。
この時の取材内容と幸之助との対談、連載「世界の窓」等を収録した『日本の活路』は、国際PHP研究所から、昭和49(1974)年12月に発刊されました。幸之助も新たに序文を書き、この書が多くの日本人に読まれることで「沈没寸前の日本の活路が、一日も早くひらかれることを切望してやまない」と述べています。
昭和50(1975)年にトインビー氏が亡くなると、息子のフィリップ・トインビー氏(Philip Toynbee)は英語版『PHP』に "Arnold Toynbee ―A Eulogy(弔辞)" と題する追悼文を寄稿しました(※3)。
1)「産業革命」という言葉を広めたアーノルド・トインビー氏の甥に当たり、2人を区別するために一般にはミドルネームのJを入れて表記されます。
2)アーノルド・J・トインビー『日本の活路』(国際PHP研究所、1974年)96~98頁。
3)英語版『PHP』May 1976, pp.2-10.