Q131:幸之助の以下のエピソードで当てはまるものは?

昭和39(1964)年、幸之助は松下通信工業が手掛けていた電算機事業から手を引くことにしました。盛んに研究開発を続けてきたにもかかわらず、そうした理由は何でしょうか?

(1)国内の同業者が多すぎると確信した
(2)松下通信工業の経営が赤字に転じた
(3)他メーカーの経営者から依頼された

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解答&解説コラム

 (1)が正解です。昭和39(1964)年、松下通信工業では大型電子計算機のさらなる量産を目ざし、力強い歩みを続けていました。そんなある日、幸之助がチェース・マンハッタン銀行の副頭取と会談した際、このように言われたのです。
 「私の銀行では世界中の企業にお金を貸していますけど、電算機をやっているところはIBMを除いてみんな損しています。日本のように小さい国で7社もやっているなんてとんでもない」
これを聞いた幸之助は考え直し、電算機からの撤退を決断しました。

 

 社内外の批判を受けたものの、幸之助は方針を変えず履行します。するとその後、GE、RCA、シーメンスといった世界的メーカーも次つぎと電算機から撤退していきました。

 

 幸之助は、のちにこのように語っています。
 「ヤリの名人は、突くときよりも引くときのほうが早いと言われるように、商売でも引き際が肝心です。あのまま電算機事業を続けていたら、10億円儲けても、別のところで30億円ぐらい失うことになったでしょう。撤退したあと、その力をほかへ向けたところ、とたんに家電の売上が増え、日本一になった。やめてよかったと今でも思っています」