関東大震災のあった大正十二年もまもなく終わろうとしているころであった。幸之助が工場の鍛冶場に入っていくと、見なれぬ小柄な若い職人が旋盤を使っている。どこの人かと思って尋ねると、「私はH工場の者です。ちょっと旋盤を拝借しています」とのこと。髪を長くし、鍛冶屋の職人というより芸術家のように見える。H工場は松下電器の下請工場で、急ぎの修理や旋盤仕事をするときには、松下の鍛冶場を随時使用していた。青年は東京で震災にあい、職を求めて大阪に来て、つい最近H工場に入ったばかりだという。仕事ぶりを見ていると、手の運びや動作に、素人離れしたところがあった。
その後数日たって、H工場の主人に会ったとき、幸之助は言った。
「きみのところにいい職人が入ったね。このあいだうちの鍛冶場で旋盤の仕事をしているのを見たよ。なかなかうまいようだから、間にあうだろうね」
「大将、あれはダメです。文句ばかり多くてダメですわ。うちの仕事の方法や何やかやに文句ばかり言ってます。あら、ダメですわ」
「きみはそう言うけれど、あの男は相当仕事ができるように思うがなあ」
「実は弱ってるんです。いっそのこと、大将のほうで使ってくれませんか。うちではあれに適当な仕事もありませんから頼みます」
「きみがそう思うなら、ぼくのところによこしたまえ。しかるべく使ってみよう」
そんな経緯で入社した二十二歳の青年は、のちに新しいアイロンやラジオを開発し、技術担当の副社長として活躍した。