大正十四年、幸之助は町内から推され、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補することになった。健康状態があまりよくないからと断わったが、「もう町内有志で決めたことでもあるし、選挙運動は有志がやるから、きみは静養しておればいい」と言われ、引き受けたのである。

 

 立候補者は二十八名で、議員の定数は二十名。ところがいざ選挙運動を始めてみると、予想以上の激戦であった。当時は戸別訪問が許されていたので、候補者が一軒一軒膝詰め談判して投票を依頼するという状態であった。

 

 最初は町内の有志に運動を任せていた幸之助であったが、他の候補者の活躍ぶりを耳にするうちに、こちらも負けていられないという気分になってきた。そうすると、妙なもので体調も比較的よくなってきた。

 

 そこで、投票まであと二十日というときになって、幸之助は選挙運動の第一線に立った。それまで候補者が姿を見せなかったのだから、当然幸之助の陣営は不利であったが、有志たちの意気は盛んで、なんとしてでも自分たちの候補者を当選させてやろうということで、全員が燃えていた。

 

 幸之助も大いに燃えて、有権者の戸別訪問を開始し、熱をこめて話した。ただ、幸之助は、他の候補者が同じ家に何度も足を運んで説得していたのに対し、同じ家には一度しか行かなかった。候補者が二十八人いるのだから、一人が一回訪問するだけでも有権者は二十八回も応対しなければならない。それが三回、四回ともなれば、しだいに“また来たか、うるさいな”という気になるのではないかと考えたからである。

 その代わり、その一回の訪問のときに、誠心誠意、心をこめて意見を述べ、相手の共鳴を得るよう努力した。

 

「私は初めて立候補するので、区会のことを詳しくは知りません。しかし、区会議員という仕事は非常に大切なものですから、幸い当選した場合には、一所懸命にやるつもりでおります。私は訪問はこれ一回にしており、もうまいりません。くれぐれもよろしくお願いいたします」

 

 投票の結果、二十八人中第二位で当選を果たした。有志も幸之助も感激し、万歳の大唱和となった。