最初の奉公先の火鉢店が、幸之助が入って三カ月で店を閉めたため、幸之助は親方の知りあいの五代自転車商会に移った。大阪船場の堺筋淡路町。商都大阪でいちばんの商売の中心地である。幸之助は、この自転車店で、満十歳から足かけ六年間の奉公生活を送った。
 主人夫妻には子どもがなかったため、四、五人いた小僧のなかでもいちばん年少の幸之助は、商人としての厳しいしつけを受けつつも、まるで実子のようにかわいがられた。

 自転車店が開業して何年目かの記念日のことである。写真屋に来てもらい、夫妻以下一同で記念撮影をしようということになった。
 ところがその日、あいにく幸之助は用事を言いつかって出かけなければならなくなった。撮影の時間までにはなんとか戻ろうと思って出かけたものの、先方で思わぬ暇がかかり、用事をすませて急いで戻ってきたときには、すでに写真はとり終わり、写真屋も帰ってしまっていた。

「幸吉(奉公時代の愛称)ッとん。おまえ、帰りが遅かったさかい、待っとったんやけど、写真とってもろうて、もう写真屋帰ってしもうた。また今度のときにとるさかいに……」

 主人の言葉に、幸之助はこらえきれず泣きだした。
 まだ十歳の少年である。写真というものに接する機会が滅多になかった時代のこと、せっかく写真をとってもらえるということでうれしくてたまらなかったのが、自分だけ抜かされてしまった。それが悲しかったのだ。

 すると、泣いている幸之助を見かねた奥さんが、「幸吉ッとん、かわいそうに」と、わざわざ幸之助を写真屋へ連れていき、二人並んで写真をとってくれた。
 そのときの写真は幸之助の大切な一生の宝物になった。

 

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