幸之助には、いわゆる相談役ともいうべき人物がいた。真言宗の僧侶で、大正の終わり、幸之助が三十歳のころに、ふとしたことから知りあった。後年は、松下電器の中に小さな家を建て、そこで昭和二十八年に八十四歳で亡くなるまで、十五、六年間、松下電器の発展と幸之助の健康を祈って、毎日欠かさず朝夕二時間勤行をしたという人物である。
一部の同業者が、過当競争をしかけてきたことがあった。幸之助がまだ若く血気盛んなころである。向こうがその気なら、ひとつ徹底的にどちらかが倒れるまでやり抜いてやろうという気持ちになって、幸之助がそのことを打ち明けると、その人は即座に答えた。
「私は反対です」
「なぜですか」
「松下さん、これがあなたお一人の商売なら大いにおやりなさい。しかし、今あなたの下には何千という人がいて、働いている。そのことを考えないといけません。
つまり、あなたは一軍の大将だ。その大将が個人的な怒りをもって仕事をするのは許されません。“向こうがやるのなら、こっちもやってやる”というのは、なるほど勇ましくてよいが、それは“匹夫の勇”というものです。あなたは溜飲が下がるかもしれないが、それでは何千人という人が困るではないか。大将というものは、そんなことをするものではありません」
幸之助はどちらかといえば神経質で感情の強いほうであった。何かあるとカーッとすることもあったが、こうした大将としての心構えを聞いてからは、常に全体的にものを考えねばならないと、みずからを戒めるようになった、とのちに語っている。