昭和四年の未曾有の不況を乗り切ってから三年、松下電器は順調な歩みを見せていた。店員約二百人、工員約千人。事業分野も、配線器具、電熱器、ランプ・乾電池、ラジオの四部門、製造品目も二百点余を数えるまでの規模に成長していた。しかし、幸之助は、こうした伸展を喜びつつも、まだみずからの経営に何かもの足りない一面を感じていた。


 そんなある日、幸之助は知人の勧めで、ある宗教団体の本部を見学する機会を得た。熱心な勧めにほだされての見学であったが、行ってみて驚いた。本殿の大きさ、用材のすばらしさ、普請の見事さ、それにチリ一つ落ちていない清浄な雰囲気。教祖殿は建築の真っ最中であったが、現場で作業している人たちはみな奉仕の信者で、生き生きと喜びにあふれて仕事に取り組んでいた。
 帰りの車中で、幸之助の頭に、その日見た光景が次々に浮かんでくる。夜、床に就いてもその日の興奮はさめずなかなか寝つけない。


 “なんという繁栄ぶりか、なんと立派な経営か。不景気で倒産が出たりするわれわれの業界とたいへんな違いじゃないか。どこが違うのだろう。宗教の仕事とはいったい何だろう”

 幸之助は、宗教と事業というものに思いをめぐらせた。


 “宗教は悩んでいる多くの人々を導き、安心を与え、人生を幸福にしようとする、いわば「聖なる事業」である。しかし、われわれの仕事もまた、人間生活の維持向上に必要な物資を生産する「聖なる事業」ではないか。人間生活は、精神的安心と、物の豊かさとによって、その幸福が維持され、向上が続けられる。よく考えれば、どちらも世の中に必要なもの、いわば車の両輪のようなものだ。事業はその一方の「物」を、宗教はもう一方の「心」を受け持っている。心のほうの製造元は繁栄そのものなのに、物の製造元のほうはさまざまな問題に悩んでいる。宗教は人を救うという強い信念をもってやってきたが、われわれ商売人は、物を買ってもらい儲けさせてもらう、という通念でやってきた。そこに両者の開きが出てきている原因があるのではないか。われわれ産業人も自分がやっていることの究極の意義をしっかりと自覚しなければならないのではないか”


 幸之助はこのときから、真の使命の確立へ具体的に動き始めた。そして、昭和七年五月五日、端午の節句を期して、全店員を大阪の堂島にある中央電気倶楽部に集め、松下電器の真の使命を明らかにしたのである。


 「……産業人の使命は貧乏の克服である。社会全体を貧から救って、これを富ましめることである。商売や生産の目的は、その商店や工場を繁栄させるのではなく、その活動によって社会を富ましめるところにある。その意味においてのみ、その商店なり、その工場が盛大となり繁栄していくことが許されるのである。……松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産により、物資を無尽蔵にして、楽土を建設することである……」


 切々と訴える幸之助の声が会場に響く。店員のなかには、その真情を吐露した使命感に接し、体を震わせ、涙する者もいた。幸之助の話が終わると、参加者がわれ先にと壇上に駆け上がった。所感を発表したいというのである。老いも若きも、先輩も後輩もない。壇上を占拠して次々と所感を述べる。司会者がドラを叩いて交替を告げる。一人の持ち時間が三分、二分、一分としだいに短くなっていく。それでもほとんど全員が何かひと言は述べた。場内は騒然とした興奮状態である。幸之助も言いようのない感激に顔を紅潮させ、その反響に驚くばかりであった。


 そのときから、松下電器の発展はさらに力強いものとなった。