第二次世界大戦直後の昭和二十一年のことである。
この年の年頭、幸之助は、"この困難な時期を乗り切るために、今年は絶対遅刻はしないぞ"という決心をした。ところが、一月四日、兵庫県西宮の自宅から、電車で大阪に出たところ、迎えに来ているはずの会社の車が来ていない。待っても待っても来ないので、とうとうあきらめて電車に乗ろうとしたとき、ようやく車がやってきた。完全に遅刻である。きいてみると原因は事故ではなく、運転手の不注意であった。
幸之助は、その運転手はもちろん、その上司、そしてまたその上司と、多少とも責任のある八人を減給処分にした。もちろん、いちばんの責任者である幸之助自身も、一カ月分の給料を返上した。
世の中が混乱し、お互いの責任を守ろうという意識もおのずと薄れがちだった当時の風潮のなかで、幸之助のこの厳しい処分は、社員の心を引き締め、混乱の時代を乗り越える原動力となった。