終戦直後の民主化の波のなか、各地で労働組合が生まれつつあった。昭和二十一年一月、松下電器においても労働組合が結成され、その結成大会が大阪中之島の中央公会堂で開かれた。
「社長として祝辞の一つも言わねばなるまい」
大会が開かれると聞かされたときからそう考えていた幸之助は、当日、会場へ出向いた。満員の盛況である。
しかし、祝辞を述べたいという幸之助の希望は、すぐには容れられなかった。
「少々お待ちください。みんなと相談しますから」
議長が会場に向かい、幸之助の祝辞を受け入れたものかどうか賛否を問うている。「やめとけ」「出ていけ」「いや聞いてやれ」という意見が入り乱れ、騒然となったが、結局、大方の賛意が得られ、幸之助はやっと登壇を許された。
「これからの日本は、破壊された状態から復興へと立ち上がる大切な時期だ。労働組合の誕生は、真の民主主義に基づく新しい日本を建設する上において、非常に喜ばしいことであり、私は心から祝意を表したい。私は基本的には労働組合に賛成するものである。組合ではいろいろなことが決議され、また会社に対して提案や要望も出てくるであろう。それが国家国民のため、皆さんのためになることであれば、喜んで聞いていこう。けれども聞くべきでないことは聞かない。そしてともどもに力を合わせて日本再建に努力していこうではないか」
三分間ほどの短い祝辞であったが、会場からわれんばかりの大拍手がわき起こった。
その晩、大会に来賓として出席していた社会党の代議士が幸之助を訪ねてきてこう言った。
「私は長いあいだ労働運動を続け、ずいぶんたくさんの労働組合をつくってきたが、どの組合でも社長、経営者の悪口を言っているし、経営者のほうでも労組の結成式などには出てこない。しかし、あなたは敢然として出席し、満場の拍手喝采を受けて引きあげた。こんなことはあなたが初めてだ。私は非常に感銘した。だからこうして来たのです」