昭和十年、個人企業から株式会社に改組した松下電器は、すでに従業員五千人に近い大企業に成長していた。
そのころある工場の主任が、電話で幸之助に呼び出された。
「どや、しっかりやっているか。暇やったら家のほうへ来ないか」
何ごとかと思いつつ西宮の自宅を訪ねると、幸之助はすでに外出の身仕度を整えている。
「デパートまわりをしようと思ってるんや。名刺を持っていっしょについてきてや」
渡された名刺は手にあまるほどの数である。
“なんでこんなにぎょうさん”
そのときはいぶかしく思ったが、やがて納得した。
デパートに行くと幸之助は、経営者へはもちろん、電器売り場の責任者から女性店員一人ひとりにまで挨拶し、名刺を渡していく。
「松下です。よろしゅうお願いします。うちの製品の評判はどないですか」
これを阪急から始めて、大丸、そごう、髙島屋……と続けていく。途中、幸之助は言った。
「きみ、工場で物つくってばかりいるのが能やないで。販売店の人たち、消費者の方々をよく知り、大切にしなあかん」