まだ戦後の混乱のさなかにあった昭和二十二年暮れのことである。たまたまその年は十二月二十五日の大正天皇祭をはさんで年末まで、飛び石で休日が続いていた。そこでいくつかの製造所から、「これでは能率も悪いし、食糧難で買い出しも必要だから、正月休みを含めて一週間まとめて休みにさせてもらいたい」という要望が出た。
実施案を書類にまとめ、人事部長を兼務していた幸之助のところへ持っていった人事課長を待ち受けていたのは、厳しい叱責であった。
「そもそも工場というものはどのように経営せねばならんかがわかっておらん。いったいこの案はだれが考えたのか」
まさか他人の案とも言えず、課長は答えた。
「はい、私が考えました」
「きみは何もわかっとらん。そういうことで人事をやっているとは大問題だ。このことは、製造所の支配人にもきいてみたのか」
「はい、二、三の方のご意見を伺いました」
「すぐに支配人を集めよ」
集まった支配人に幸之助の叱責は続いた。
「きみたちのなかでだれがこれに賛成したのか。お得意先の皆さんは、年末も年始もなしにわれわれのつくったものを売ってくださっている。また、一週間という長いあいだ工場を無人にして、いざというときにどうやって対応するつもりか」
当時は治安も悪く、宿直や保安係の人が危害をこうむる事件も頻発していた。
「われわれが命をかけて守らなければならない、命の源である工場を無人にするということは、経営の根幹が全然わかっておらんということや」
お説教は、延々二時間ほども続いた。