20代の社会人生活は、高校のころからの夢だったオートバイレーサーとして過ごした。300キロオーバー0.1秒を競うレースの魅力にのめり込んで戦った。挫折もあったし、事故にもあったが、人との出会いの中で多くを学んだ。そして、33歳で起業。レースで突き詰めた人生の真理と仕事の極意は、どの世界でも通用する。そう信じて若者、組織、地域の活性化に邁進する「松下幸之助経営塾」塾生の石川朋之さんの思いに迫った。
◆オートバイレーサーから経営者へ異色の転身(1)からのつづき
志を立てる 若い人たちを元気にしたい!
考え方を変えた事故の経験
オートバイレースの世界は、さまざまな側面を併せ持っている。通称「鈴鹿8耐」で知られる鈴鹿8時間耐久ロードレースは、日本最大のオートバイレースとして十数万人の観客数を動員する。有名企業がスポンサーにつき、多くのメディアで放映されるレースは、華やかなショービジネスの一面を持つ。その一方で、サーキットの建設や維持管理、世界に肩を並べるマシンの開発やライダー装具には多額の費用が発生する。レーシングチームの収入源はスポンサー料がメインで、主催者から得られるギャラや賞金の割合は決して高くない。戦績を残せなければスポンサーが離れていくシビアな世界である。
レースはライダーの個人競技でもあるが、同時にメカニックを含めたチームスポーツでもある。マシンを最高の状態にするために技術面で整備、管理するメカニックとクルーの高度なテクニックは大前提。それがあって初めて、ライダーは体力の限界と精神的なプレッシャーにさらされても0.1 秒を賭かけてレースを闘い抜けるのだ。
石川さんはそんな世界でプロのレーサーとして十四年間闘った。鈴鹿八耐にも出場した。二十代前半は新しいマシンやパーツをそろえるために借金も抱えた。レースでは転倒の恐怖心もあったが、速くなりたいという純粋な気持ちがすべてを上回っていたという。
そんな石川さんにひとつの転機が訪れる。二〇〇二年、二十四歳のとき、練習中に事故が起きたのだ。原因はブレーキの破損。走行中にブレーキが取れるという「ありえない事故」である。石川さんは脚と上腕を骨折し、全治六カ月の重傷を負った。
事故後、石川さんは身体的な痛みとともに精神的な痛みに向き合うことになる。「お見舞いに来てくれる人が少なかったんですよ。そこで初めて気づきました。自分はちやほやされていたんだなあと。心がつながっていなければ、人は簡単に離れていくんですね」。それまでは自分が速くなるためだけに走っていた。自分中心に世界が回っているような気がしていた。だが、事故をして気がついた。どうやら自分は間違っていたようだと。
そんな漠然とした思いを抱き、松葉杖づえをつきながらサーキットに戻った日、ライバルのレーサーやチームスタッフの姿を見つけた石川さんは、なぜか反射的に身を隠した。「石川はもう終わったな」と噂うわさされているような気がしたのだ。中学時代のいじめの記憶が蘇よみがえった。堂々とその場にいられない、うしろめたい気持ち。逃げるように大阪の高校に行ったこと。あのときと同じ状況を再び突きつけられた。
レーサーを辞めることも考えたが、スポンサーのある社長が言った。「石川くん、死ななくてよかったなあ。きみがもう一度挑戦するなら、ぼくは応援するよ」。そのとき石川さんの思考が一八〇度変わった。その人に喜んでもらいたいと痛切に思ったという。「自分のライバルは自分。まず自分に勝たなければ。自分を応援してくれる人たちに喜んでほしい。そのためにもう一度、いちからやり直そう」と心に決めた。
そう思ってからはリハビリも早かった。「今は弱い自分が出てきている。それに打ち勝ち、今の状況を脱するためには、その場でもう一度トライするしかない」。同じ場所にとどまって闘うことを選んだ石川さんは、出場するレースを決めてバイクを用意した。そこで速く走ることをひたすらイメージしてリハビリに励んだ。結果、医師に正常に動くには半年以上かかると言われたにもかかわらず、三カ月後にはレースに復帰していた。驚異的な回復である。
今ある状態でベストを尽くす
ブレーキが取れた事故を、今では因果応報だと感じている。「周囲に対する日ごろの行いがあまりよくなかったんでしょうね。自分は天才だとか、自分中心に世界が回っているとか。ぼくがよければすべていいという考えがあったのだと思います」。もちろんオートバイレーサーは、強い自信と高い自己評価が求められる職業ではあるが、そこに周りの人の支えがあるという視点が全くなかったと石川さんは省みる。「おそらく、神様が頭を打てと仕向けたんでしょうね」。
一般的にブレーキ破損はメカニックの整備ミスだと言われる。石川さんもそのときはそう思った。しかし、今はそう思わない。「メカニックがミスをする。チームがそういう状態になるのは、すべて自分の考えや行動がつくり出しているんです」。良いも悪いも、一人の思いがチーム全体に波及するのだと実感している。
もうひとつ、学んだことがある。「今ある状態でベストタイムを出せ」ということだ。モータースポーツはお金がかかる。新しいパーツがほしい、いいタイヤがほしいと思えば際限がない。だが、遅いバイクで速く走るのが一流の証あかし。尊敬するライダーにそう叩たたき込まれた。「自分が持っているマシンでベストを尽くすと自然に結果も出る。そうすると不思議と新たなチャンスが廻ってくる」。与えられた状況を最大限に活かそうとする姿勢。周囲はそんな人間を支援するのだと学んだ。
石川さんはある時期から、同じメーカーで闘うことを決めた。「コミットするというか、忠誠を誓う感じですね。そうすると、周りが応援してくれて、同じチームでやろうよと声がかかるようになりました」。そうして、国際的デザイナーである山本寛斎氏プロデュースのチームに入り、エースライダーとして走ることになる。いろいろな条件が整い、最高の態勢で走る機会を得られた時期だったという。結果、次の年には、全日本選手権スーパーバイクランキング一三位の実績を残すまでになる。
◆『PHP松下幸之助塾』2015.11-12より