カメラのシャッター用ばねの製造に始まり、顧客の要望に応じて様々な精密機器のばねへと販路を広げてきた小松ばね工業は、国内有数の極小・精密ばねのメーカーである。職人肌の創業者急逝後に、混迷する社内を立て直したのが小松節子現会長で、後継者は長女の万希子社長(「松下幸之助経営塾」卒塾生)。町工場には珍しく女性経営者が二代続く。穏やかな社風のもと、培われた熟練の技術力に磨きをかけて次代に挑む姿をレポートする。
◆超精密・高品質への挑戦(1) からのつづき
<使命に生きる>
女性経営者二代が、ばね製造の熟練技術者を活かす――part2
会社を変えた自費印刷の経営計画書
ところで、今日の小松ばね工業の礎を築いたのは、二〇一三年まで代表取締役を務めた節子会長だ。一九四〇年生まれ。幼い頃から音楽やバレエを習い、庭に専用の練習スタジオを建ててもらうほどの"お嬢様育ち"だった。
創業者の小松謙一氏は、節子会長の伯父にあたる。節子さんは、子どもがいなかった小松家に養子に入ることが決まりながら、しばらくは実家を出ることもなく、学校に通いながら好きなバレエに打ち込む日々を過ごしていた。
二十歳の年に母親が亡くなる。節子さんは深い悲しみの淵に落とされるが、「今この時を逃せば、二度と実家を離れられない」と思い、母を喪った悲しみと同時に、生まれ育った家とも別れる運命を受け入れたのだった。
小松家に入ってから、生活は一変した。バレエ教室で教えるために実家に戻る時以外は、洋裁や料理など花嫁修業の日々を過ごす。
一方、会社には当時一〇人前後の住み込みの従業員がいて、食事など身のまわりの世話を小松家の母親(養母)とともに行なった。ただし、それ以外の会社の仕事は、ばねづくりはもちろん、事務を手伝うこともなかった。
二十五歳で結婚、一男一女に恵まれた。夫は次期社長となるべく婿養子になったが、職人肌の謙一氏とは仕事観に大きな隔たりがあった。
八〇年に謙一氏が急逝すると、事態は急展開を迎える。謙一氏所有の株式は節子さんと養母に相続された。夫には相続権がなく、遺産をめぐり相続争いが発生する。会社でも役員との間に事業承継問題が起き、お家騒動と人事騒動の両方に巻き込まれたのである。曲折の末、最終的に夫は節子さんと離婚し、会社も去った。
その後、養母も亡くなると、節子さんは古参の役員たちに担ぎ上げられて小松ばね工業の社長に就く。四十代も半ばに差しかかろうという時だった。それまでずっと専業主婦で、事業にかかわったことはない。会社がどんなところかも、皆目見当がつかなかった。恐るおそる廊下を歩いて出社し、社長の席に座った。
経営は役員たちが取り仕切り、節子社長に口を挟む余地を与えなかった。「何もわからないから、そのうち逃げ出すだろう」とでも思われていたようだ。「一体社長とは何か」と自問自答していたある日、ふと目にした「経営セミナー」に参加して、目を見開かされた。
「会社がつぶれたら、責任を負うのは社長ただ一人です」
講師のこの一言が、節子さんを「主婦」から「経営者」へと生まれ変わらせた。「自分一人が責任を負うことになるのなら、『わからない』なんて言っていられない。力を尽くしてやった結果、会社がつぶれるのならともかく、何もしないでつぶしたのでは父(養父)に申し訳が立たない」――そんな思いだった。
NCのスプリング自動生成機(前回参照)
リズムよく次々にばね(写真中央)がつくられていく
創業者が亡くなったあとの会社は、すさんでいた。工場は整理も清掃もいい加減で、床のそこかしこに油がこびりついている。応接室のソファは従業員の昼寝の場所と化していた。来客があると、あわてて部屋を片づけてお茶を出そうとするが、その茶碗は縁が欠けていたり茶渋がこびりついていたりした。
社長としての節子さんの仕事は、まず社内をきれいにすることから始まった。社員に声をかけてともに掃除し、工場内の埃をふき取り、床に堆積した油汚れを削り取った。「環境整備を徹底すれば、心まで磨かれる」というセミナー講師の教えの通り、遠目で見ていた社員も一人、また一人と清掃を手伝うようになって、まさに心に迫る効果となって表れたのだった。
職場の汚れ具合に象徴されるように、業績も悪化していた。が、役員らの危機感は薄い。セミナーに通い続け、経営の学びを深めていった節子社長は、「経営計画書」を作成し、みずからの方針を打ち出そうとした。
「会社というものはお客様があってはじめて成り立ちます。お客様のお役に立てなければ、わが社は存在できません。品質も納期も、あらゆる面でお客様のご要望を受け止め、期待に応えるものを提供する必要があります」――お客様第一の方針を前面に打ち出して、全社に意識改革を迫ることを決断したのだ。
ところが、経営の主導権を握られたくない役員たちから賛同が得られない。経営計画書の社費での印刷は認められず、やむをえず節子社長は自費で計画書を印刷し、全社員に配付した。
すると社長の覚悟が伝わったからか、多くの従業員が節子社長の掲げる旗のもとに集まり始めた。社内の潮目が変わる。路線を異にする役員らはみずから職を辞した。こうして節子社長は、名実ともに小松ばね工業の後継者としての地歩を固めたのである。
役員たちは一掃されたが、経営者としてはまだまだ初心者マーク。簿記の資格を取り、理想のバランスシートを描けるまで粘り強く勉強を続け、やがて現実の数字の改善点をみつけて社員に指示を出せるようになった。
また、経営計画書の作成を通して「会社の真の支配者はお客様」という事業活動の本質を知った節子さんは、お客様の要望をつかむため、お客様訪問を徹底して繰り返す。ものづくりの技術を持たない自分にとって、お客様との良好な人間関係の構築こそが経営者としての大切な活動と位置づけたからだった。その後は、技術者の発想や技能の深化を支援して新製品の開発、品質の均一化、精度の正確さを追求するとともに、納期の厳守、生産の合理化、コストの低減を図ってお客様との信頼関係を築いた。
さらに、東京近郊での人材確保の難しさを見越して、地方および海外へも進出する。八九年秋田太田町工場新設、九二年同第二工場増設に続き、九五年頃からはアジア各地を視察して回り、九七年にインドネシアに子会社を設立した。今でこそ経済成長著しい国ながら、当時のGDPは今の二〇分の一ほど。「なぜインドネシアだったのか」と尋ねられることも多いそうだが、それは節子さんの勘だった。当時は競争相手となる同業者が少なかった上に資本にもあまり制限がなく、何より現地の人とのコミュニケーションが抵抗なくできそうだと感じたからだという。こうして、求められる製品の変化に素早く対応できる体制をつくり上げたのだった。
◆超精密・高品質への挑戦(3) へつづく
DATA
小松ばね工業株式会社
[代表取締役]小松万希子
[本社]〒143-0013
東京都大田区大森南5-3-18
TEL 03-3743-0231
FAX 03-3743-0235
創業...1941年
設立...1952年
資本金...1億円
事業内容...精密ばね製造・販売