茶道をたしなんでいた松下幸之助は、裏千家と長年にわたって交流を持ちました。PHP研究所の資料にも、その記録が残っています。
まず、終戦後の初期PHP活動において、昭和22(1947)年4月6日、京都市の聖護院で第130回PHP懇談講演会が開催されました。これは、裏千家淡交会の会合のうち、40分を幸之助の講話のために割り当てたもので、約200名の「聴衆が至極熱心であった」と記録されています(※1)。その後、同年4月26、27日、枚方町(現枚方市)の萬里荘で、PHP大茶会が開催され、裏千家流も含めた5席のお茶席が設けられました(PHP大茶会――PHP活動〈8〉参照)。
研究活動再開に向け、真々庵の設計を受け持ったのは、当時裏千家が経営していた株式会社仙アートスタヂオでした。同社は、その後も幸之助が高野山金剛峯寺や弁天宗などに茶室を寄贈する際、設計を担当しています(※2)。
昭和36(1961)年11月9日には、裏千家今日庵の老分16名がPHP研究所に来所しました。幸之助は、「裏千家宗匠(淡々斎氏・右写真)御夫妻、若宗匠(千玄室氏)御夫妻もお見えになり、なごやかに遊んで頂いた」と記しています(松下会長日誌)。同年12月27日には、千玄室氏が「お歳暮御持参」のため来所しました(業務日誌)。
翌昭和37(1962)年6月21日、「国際婦人会ご一行、44名」が来所しており、「南芝生にて立礼、茶室、二ヶ所でおうす接待」が行われました(業務日誌)。幸之助は「裏千家より国際婦人の会合のため、この真々庵を貸してほしいと頼まれていたので、約40人ばかり迎えた。自分は会の終りごろ出、ちょっと挨拶をしておいた」と書いています(松下会長日誌)。
昭和37年、裏千家における初釜
左より淡々斎氏、幸之助、矢野宗粋氏
また、淡々斎氏の三男である大谷巳津彦氏が、同年2月14、15日と2日にわたって来所しました。15日は「大谷巳津彦様、奥様、赤ちゃんご来社」(業務日誌)と記録されており、幸之助は「(大谷氏の)夫人は1957年のミスユニバース(日本代表)に選ばれた人で、非常に美しい人であった」(松下会長日誌)と記しています。
昭和39(1964)年9月、淡々斎氏が死去。同月19日に催された葬儀で、幸之助は葬儀委員長を務め、「千家四百年の歴史を通じて、あなたはいわば千家中興の祖であり、また日本茶道中興の祖であるといっても過言ではない」と弔辞を述べています(※3)。
1)『懇談会記録綴』、原文の送り仮名はカタカナ。
2)淡交社編・発行『松下真々庵茶室集録』(1976年)221頁。
3)淡交新社編・発行『無限の譜 淡々斎宗室宗匠 追悼記』(1964年)96頁。