日本における電気供給事業に多大な貢献をした松永安左ヱ門氏(1875~1971・写真)は、松下幸之助がもっとも尊敬した実業家の一人でした。幸之助は、自著の『折々の記 人生で出会った人たち』で、「いつか直接にお目にかかっていろいろ教えを乞いたいとの願いを、長い間抱き続けていたのです。その願いがようやくかなって、親しくお話しいただく機会を得ることができたのが、昭和四十年の暮れのことでした」(※1)と述べていて、ここでは昭和40(1965)年12月に行われた『週刊朝日』の対談が最初の面会としています。しかし、これ以前に京都市南禅寺横にある真々庵に招待したことがあり(※2)、接待の詳細がPHP研究所の記録に残っています。
まず、昭和37(1962)年11月11日、京都市北区にある光悦寺の茶会に出席した際、「同席に松永氏がおられ、お目にかかることができた。明後日真々庵にお招きすることになっている」(松下会長日誌)と記しました。
翌々日の13日、『業務日誌』には「15.55~17.30松永安左ヱ門様、秘書松藤様ご来社」「17.30会長、お客様と共にご退社」と記録があります。幸之助自身の記述では、13日に「松永安左ヱ門氏が真々庵を訪問されるということで、(立花)大亀和尚と細見(亮市)氏を、接待役を兼ね、陪賓として招待した」としています(松下会長日誌)。松永氏については「前にもお会いし、旧知の間柄であるが、今日再び会って、老人の中でもモダンな、立派な人であることを再認識した」と書きました。
茶道に造詣の深い松永氏のため、茶室におけるお点前には細心の注意が払われています。詳細を記述する「会記」(所史ファイル)の資料によれば、茶人の矢野宗粋氏が茶をたて、骨董商・善田昌運堂の善田正男氏が半東(=補佐役)を務めました。椿の花が添えられた花瓶は「天平時代、素焼」と記録があり、千利休の高弟であった南坊宗啓(そうけい)による書が掛けられています(※3)。用いられた茶碗は「道入(のんこう)瑞雲」と「古伊羅保翁(こいらほ・おきな)」。広間では椿の花が赤い「根来(ねごろ)花瓶」にすえられました。南坊宗啓の書と、座敷の床の間に掛けられた尾形光琳の絵画は、幸之助の所有物ではなく、毛織物商の細見氏がこの日のために持参したものです。
退庵してからの晩餐は、幸之助の私邸であった楓庵でとりおこなわれました。楓庵は、もともと「吉富(よしとみ)」という旅館であり、以前の松永氏は京都に宿泊する際、ここを定宿にしていたとのことです(※4)。幸之助は「楓庵では元吉富の女将、お初さんも病気上りではあったが、久し振りでもあって、顔出しをし、ともども松永氏を接待した。なつかしい家に久し振りに訪れたということでも、きわめて家庭的にくつろいで食事を共にすることができ、一層氏を喜ばすことができたと思う」(松下会長日誌)と書き残しています。
1)『折々の記 人生で出会った人たち』(PHP研究所、1983年)174頁。『週刊朝日』における対談は、同誌昭和41(1966)年1月21日号、32~35頁(『松下幸之助発言集13』145~158頁、録音№738)。
2)昭和37年(1962)11月27日、新大阪ホテルで開かれた自身の誕生日祝賀会では、「十日ほど前に松永安左ヱ門さんが、京都の真々庵を訪問されまして、一時間余り、お茶をさしあげて話をしたんであります」と言っています。『松下幸之助発言集31』140頁、録音№378。
3)記録では、「啓宗」と記されていますが、ここでは「(南坊)宗啓」の誤りと判断しました。
4)『松下幸之助発言集31』141頁、録音№378。