太田垣士郎氏は明治27(1894)年2月、兵庫県城崎郡城崎町生まれ。京都帝国大学経済学部を卒業後、阪神急行電鉄で小林一三氏の薫陶を受け、後に関西電力社長に就任して黒部川第四発電所(黒四ダム)の開発に尽力したことでも知られています。

 

 初期のPHP活動に参加の記録があり、昭和22(1947)年3月31日、「京阪神急行本社会議室」で開催された第125回PHP懇談講演会では、「京阪神急行電鉄社長、太田垣士郎外25名」(懇談会記録綴)が出席しました。「P.H.P運動が直ちに展開してその具体策の顕現を要望し、全員絶対賛成を約す、友の会結成の効果大なるものと認む」(※1)と記述されています。関西財界人で交流する午七会は昭和25(1950)年に結成され、太田垣氏、松下幸之助もメンバーとなり、みなで三味線歌曲の清元を習って親睦を深めました。

 

 新政治経済研究会にも参加しており、昭和29(1954)年1月12日、クラブ関西で開催された関西第17回常任世話人会や、同年2月9日の関西第18回常任世話人会で司会を務めています。昭和32(1957)年10月25日には、クラブ関西にて「新しい時代と産業人」という題で幸之助と対談しました(上写真)。

 

 真々庵の開所以降では、昭和37(1962)年5月21日、午七会一行が来庵し、太田垣氏も顔を見せています。その後、何度も来庵の記録があるほか、京都で三十三間堂奉賛会会長を務めており、幸之助も信徒総代として同寺院の復興に協力しました(PHP活動〈38〉参照)。

 

 昭和39(1964)年3月16日未明に太田垣氏が急逝すると、幸之助は同日晩に関西テレビで放送された特別番組「太田垣会長を偲んで」に出演しています(※2)。同月21日に葬儀が執り行われ、幸之助は「友人総代」として弔辞を読みました(※3)。

 

 同年生まれの太田垣氏の逝去は特に心痛であったのか、真々庵における研究会で何度も話題に出しました。まず亡くなった翌々日の18日に研究員に対して話をし(研究日誌)、同月24日に「中央公論に掲載の太田垣氏追悼原稿の内容検討」(※4)をしており、4月1日の研究会でも太田垣氏について触れています。7月23日には有志により、「関電ビル」で「太田垣様追悼茶会」が開かれました(下写真)。

太田垣様追悼茶会 松下幸之助

「太田垣様追悼茶会」で遺影と向き合う幸之助

 

 その後、昭和40(1965)年5月25日、真々庵における研究会で「追悼文」が新たに検討され、翌昭和41(1966)年3月発行の『太田垣士郎氏の追憶』に掲載されました。この書で幸之助は「太田垣さんが亡くなられた時には、まったく肉親を失ったような思いであった。今もなおその気持ちは変わっていない」(※5)と書いています。

 


 

1)原文は漢字とカタカナ。
2)《速記録》№512所収。
3)『式辞』ファイル、《速記録》№520所収。
4)松下幸之助「命をかけるということ―太田垣士郎氏の死を悼む―」『中央公論』昭和39(1964)年5月号、140~145頁所収。
5)太田垣士郎氏追懐録編纂委員会編・発行『太田垣士郎氏の追憶』(1966年)209頁。