松下幸之助が座右の銘にした『青春』の言葉は、昭和40(1965)年12月に作成されました。12月8日、京都東山山麓真々庵におけるPHP研究会で、幸之助はサミュエル・ウルマンの詩をPHP研究所所員に紹介しています(録音№4044)。
太平洋戦争開戦のころ、フィリピンのマニラにダグラス・マッカーサーが司令官として駐在していました。幸之助の説明では、日本軍が侵攻してマニラを占領した際、この詩がマッカーサーの司令室に飾ってあったとのことです。松下電工の丹羽正治社長が大日本印刷から詩をもらい受けた際に、この説明を聞いたとしています。
幸之助は秘書に対し、この詩を短く要約するよう指示を出しました。「うちの代理店、ちょっと老い込んできたから」と言っていて、熱海会談を終え、松下電器の販売網の改革をするなかで、販売会社や代理店にこの理念を推奨したい考えだったことが分かります。
日本フェルト工業の技術者であった岡田義夫氏の訳(493字)が底本として利用されました。これがまず144字に要約されています。
青春とは肉体の若さでなく心の若さである。逞しい意志、無限の創造力、炎える情熱、安易を振りすてる勇猛心、この清新にして高き心を失えば、二十にしてすでに老人である。年を重ねただけで人は老いない。信念と自信と希望にあふれるかぎり、人は八十にしてなお青春の喜びを持ちつづけることができるのである。(144字)
これがさらに50字程度に要約され、幸之助の判断を仰ぐことになりました。
12月22日の研究会で『青春』の言葉が検討されています(録音№4046)。「信念と自信と希望にあふれて」としていた部分は、所員の提案で「信念と希望にあふれ勇気にみちて」と改稿され、言葉が完成しました。
青春とは心の若さである 信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動をつづけるかぎり青春は永遠にその人のものである(56字)
幸之助は毛筆で書く練習も始めていると言っていて、この言葉を書いた色紙を販売会社や代理店に幅広く販売したい旨を強調しています。
翌昭和41(1966)年3月18日には、すでに『青春』の色紙を額に入れて、代理店や販売会社に見せたと話しています(録音№4108)。4月18日には、ナショナルショップに配ったところ、たいへん喜ばれ、さらに色紙と額を入手したいという声が多く寄せられたと述べました(録音№4110)。
中部地区ナショナル店会大会
(昭和41年4月27日)