自転車店で小僧としての修業を始めて三年目、十三歳のころのことである。
 幸之助は、“一度自分一人で自転車を売ってみたいものだ”と考えるようになっていた。当時、自転車は百円前後。今日の自動車に匹敵する価格で、客から話があっても、小僧が一人で売り込みに行くなどということはできなかったのである。

 

 そんなある日、本町二丁目の蚊帳問屋から、「自転車を買いたいのやが、ちょうど今、主人が店にいるから、すぐ持ってきて見せてくれ」と電話が入った。
 ところがあいにく番頭も店員もみな出払っていて、幸之助しかいない。主人は、「先様もお急ぎのようだから、おまえとにかくこれを持っていっておいで」と幸之助に命じた。幸之助にとっては好機到来である。自転車の性能を蚊帳問屋の主人に、一所懸命説明した。

 

 十三の子どもが熱心に説明するのがよほどかわいく見えたのか、主人は、「なかなか熱心なかわいいぼんさんやなあ。よし、買うてやろう」と言ってくれた。
 「ありがとうございます」
 「その代わり一割まけとき」

 

 幸之助は、いつも店では一割まけて売っているのを知っていた。だから、「はい、よろしおま、店に帰って主人にそう伝えます」と意気揚々と引きあげてきて報告した。
 「あれ一割引いて売ってきましたでえ」
 当然喜んでくれると思った主人が、渋い顔で言う。
 「なんでいっぺんに一割も引くんや。商売人というもんはそんなに簡単にまけたらあかん。五分引く話はあっても、いっぺんに一割引く話はあらへん。五分だけ引くともう一度言うてこい」

 

 いくら小僧でもいったん売ると約束してきたあとである。いまさら話が違いましたとは言いにくい。そう言わずにまけてやってくれと、幸之助はシクシク泣きだしてしまった。 
 これには主人も面くらって、
 「おまえはどっちの店員か。しっかりせなあかんやないか」
 とたしなめたが、幸之助は容易に泣きやまなかった。

 

 そうこうするうちに蚊帳問屋の番頭が、「えらい返事が遅いがまかりまへんか」と尋ねてきた。そこで主人が、「この子が帰ってきて、一割引きにまけてあげてくれと言って泣きだしよって、いまもどっちの店員かわからんやないかと言うておったところです」と事情を説明する。番頭からその様子を伝え聞いた蚊帳問屋の主人は、
 「なかなか面白い小僧さんやないか。それじゃ、その小僧さんに免じて五分引きで買うてあげよう」

 

 とうとう幸之助は自転車を売ることに成功した。それだけではなく、この話にはおまけがついた。
 「この小僧さんがいるうちは、自転車はおまえのところから買うてやろう」
 幸之助は大いに面目を施したのである。