昭和29(1954)年、松下幸之助は、『文藝春秋』5月号に「観光立国の弁」と題する一文を発表しました(上写真)。これに関連する資料がPHP研究所に残されており、論考を発表する前から、幸之助が観光に強い関心を持っていたことが分かります。

 

 まず、幸之助が最初に観光について公の場で述べたのは、おそらく昭和27(1952)年9月、松下電器社長室で行われた立花大亀禅師との対談だと思われます。幸之助はこの対談で「日本の富の一番大きなものは何かというと、日本の景観美だ」と説きました(※1)。

 翌昭和28(1953)年1月30日、新政治経済研究会・茨木支部結成会でも観光政策の話をし(※2)、同年2月5日、松下電器東京支店で矢部貞治氏と会食した際に、「観光政策論」について述べています(※3)。同年9月22日、大阪朝日会館で開催された新政治経済研究会1周年記念講演会では、各講演者が「1日大臣」を務め、幸之助は「観光大臣」として登壇しました(※4)。

 

 こうした活動をへて、昭和29年、上述の「観光立国の弁」が発表されました。幸之助は日本の「自然の美しさ」は「世界の一、二位」であり、これを他国の人に見せるのは「持てる者が持たざる者に与えるという崇高な博愛精神に基づく」と説いています。多くの外国人観光客を呼び込むことは「国土の平和」にもつながるとして、「観光省」を設立すべきだと主張しました。

 この主張は反響を呼び、読者の手紙が文藝春秋編集部経由で送られ、幸之助は同年5月31日づけで8名に返事を書いています。手紙を送ってきたのは、地方で観光業に従事している人たちであったと思われ、6名は幸之助に面会を求めました。しかし、たとえば久野昭二という人にあてて、「過般来いさゝか健康をも害しているような状態で、折角の貴台からの熱心なお心立てに応じかねる次第」とし、面会は辞退しています(※5)。岩手県会議員の沢藤幸治氏は『展勝地の使命』という書を贈呈してきており、広田健太郎氏は『姫川温泉概要』、中山富夫氏は『国際観光研究会』の書籍を贈ってきました。幸之助は、いずれも面会は断りつつも、書籍の贈呈や「観光立国の弁」に賛同してもらった点については、丁寧に礼を述べています。

 


1)國頭義正編集兼発行『人生問答 立花大亀対談集』(経済春秋社、1956年)19頁。この対談が昭和27(1952)年9月、松下電器社長室で行われた旨は同書14頁。
2)『新政経ニュース』第8号(昭和28〔1953〕年2月15日発行)10面。
3)『矢部貞治日記 欅の巻』(読売新聞社、1974年)695頁。
4)『昭和廿八年六月十日起 PHP研究所業務日誌』92頁、『新政経ニュース』第29号(昭和28〔1953〕年10月1日発行)3~7面。
5)『所長発信簿』190頁。

 

関連項目

松下幸之助の社会への提言「観光立国への提言」

日本の景観美は世界一 なぜそれを生かさないのか――松下幸之助の自然観(1)

もしも人間の力で瀬戸内海をつくると……――松下幸之助の自然観(2)

道州制を採用し過疎過密のない国土に――松下幸之助の自然観(3)